2022年10月4日火曜日

混元太極拳に関する張禹飛老師論文 その2

 なぜ「混元太極拳」は太極拳の元来の練習方法を回復したと言われるのか

                     張禹飛

太極拳の大家、馮志強先生が創始した「陳式心意混元太極拳」(以下、混元太極)は、道教の内丹功を基礎に、陳式太極纏絲内功と心意六合の内功を母体とし、科学的で完全な「混元太極拳」の練功システムを確立しています。その拳と功(内功)は一体であり、身体の内と外を共に求め(身体の内なる内功を練りつつ、外の拳も練る)、性と命を共に修め、形を練る事で道に適う練習です。これは太極拳の歴史におけるもう一つの一里塚であり、後世に貴重な精神的な宝物を残したといえる。 私は「混元太極拳」の真骨頂は本来の修練を取り戻し、本来の面目を回復している事にあると思います。 私は長年(馮志強)老師に付き従って、混元太極拳を追いかけてきて、混元太極拳に関する見識や体得を蓄積してきましたので、それを皆さんと一緒に「混元太極拳」の一部を拳友諸氏と共有し、レンガを投げて玉を引く(拙い意見を述べて、貴重な意見を引き出す)事により自分を慰めたいと思います。 私は学も浅く、理解力も鈍いので、必ずしも「混元太極拳」の深遠な奥義を理解できていないので、きっと多くの点を見落とし、本質を外し枝葉末節に走ってしまったと思いますので、良識のある方々のご助言をお願いします。 この論文では、5つの側面について詳しく説明したいと思います。

1.「混元太極拳」は伝統文化の精髄を継承している。

2.「混元太極拳」は、伝統文化の偉大な「大道」を継承している。

3.「混元太極拳」は古典太極拳の練習方法の真髄を回復している。

4.「混元太極拳」は、中国武術の技撃の魂を維持しています。

5.「混元太極拳」科学的な練習体系を確立しています。


  1. 「混元太極拳」は伝統文化の精髄を受け継ぐ

「太極」は中国古来の哲学的概念である。 宇宙の起源という意味を持っています。 文字の歴史が証明しているように「太極」という言葉は、《周易·系辞》に始まる。即ち「易に太極あり、両儀を生ず」「一陰一陽を道となす」と示されている。 この文脈での "有 "は、"~から来た"と訳すことができる。 "易は太極を持つ "とは、易経が太極から来たものであることを意味します。『易緯・乾鑿度』によると、「易は太極に始まり、太極は分かれて二となる。」という。これが陰陽です。周易は占いの筮書であり、占いは未来を予測することであることを知っている。周易は占術書であり、占術とは未来を予測することであることが分かっている。太極の道は時間的に言えば、過去、現在、未来は太極の理に由来している。つまり、太極は天地万物の存在の道理である。 荘子-大師曰く、「道....は太極の先にあって高さを為さず、六極の下にあって深さを為さず、先天的に生まれて久しく為さず。上古に長けて老いを為さず この場合、六極は天地四方の意味と上下限を指し、太極は最大限を指す。 以上のように、広義の太極とは、四方や上下、時間や空間における宇宙の営み、万物の存在や変化を知らせる「道」を指し、狭義の太極は、古代中国の哲学者や書記の間で、次のようないくつかの意味を持つことが分かっている。 狭義の太極は、古代中国の哲学者や経済学者間で、「生命エネルギー(元気)」の意味での太極(『漢書・律暦志』、漢-鄭玄・王充、唐-孔英達、宋-張作、清-王夫子)、「図」、「神」で「太極」を解釈する(宋・陳と周敦頤)、「道」、「心」で「太極」を解釈する(宋・邵雍)、「太極」を「理」で表現する(宋・朱熹と二程)です。①

「混元太極」の修業思想はまさに以上の古人の太極の「理」と太極の「道」に基づいている。だから馮師は自分の練功(稽古)の思想を次のように述べた:「稽古は静寂の時を待つべし、静寂なくして動の妙を見ず。」、“拳を稽古するのは無極から始め、陰陽開合を真剣に求めます”。これらはすべて太極の理に基づいている。この思想は中華上古時代に形成された太極文化の最良の継承である。この道理に基づいて、太極拳を練習すれば経絡は疎通し、体を丈夫にし、体内エネルギーを強くし、寿命を延ばすという目的を達成することができるのです。

「混元太極」は「太極の理」に基づいているだけでなく、特に「混元」の意味を強調している。混元とは何か?

「混元」という言葉を考察してみよう。宋・張君房が集めた道家の典籍『云笈七签(雲笈七簽)』(巻二)に、「混元は、混沌の前の生命エネルギーの始まりを表す言葉である。」とあります。

②ここでいう「混元」とは、生命エネルギーの状態の始まりのことであり、宇宙と人体の両方を指すことができる。 この世の万物は、内なる空と外なる無で成り立つ混沌であり、混沌の前に元気(元のエネルギー)があり、このエネルギーによる感覚(精感)が真の一体感を生み、気の調和が元気(元のエネルギー)を生むのです。気の動きは天と地を確立し、万物を変容させます。

我が国の古代気功の典籍『性命圭旨』は曰わく、「夫天地の太極、一息斯析、真宰自判、交映羅列、万霊粛護、陰陽判分、是太極、是『一生二』也、曰虚皇。陰陽既判、天地位焉、人は育焉、是『二生三』也、是曰混元」。これを意訳すると「宇宙の最初の頃、混沌一気が分かれ陰陽が判然とする。これを太極という。所謂一が二となる。陰陽二気ができ、天と地が形成され、人間が育つようになる。所謂二が三となる。これを混元という。」

③この話の意味は、天地の気はもともと茫漠として果てしなく、混沌としていて、霊気を含めて玄妙で、これは太乙で、これを「無始」と呼ぶ。天地が始まった当初、元気は絶えず流れて鼓動し、虚空の境は急に開いたり閉じたりして、陰陽の二気は互いに感応して、白黒の二色は互いに融合して凝集して、“ある”と“ない”は互いに追いかけて求めて、混沌とした光景を呈して、希薄で虚静で神聖が極まり、ぼんやりしている中で中正の準則を確立している、これが「太易」で、“元始”と称します。天地の太極は混沌の気が陰陽二気に分かれた後、清らかな気が陽となって天に上昇し、濁った気が陰となって地に下降し、天地陰陽が二つに分離した処、つまり太極であり、これを「虚皇」と呼ぶ。陰陽二気が分離した後、天地はそれぞれその所を安んじ、人ができて、これは「二生三」と呼ばれ、これを又「混元」と呼称する。

『易緯・乾坤鑿度』によると、「太易あり、太初あり、太始あり、太素あり」、「太易はあまりにも変わりやすく、民に教えて倦まない。太初の後に太̪始があり、太始の後に太素がある。万物は質があり、質は混元から離れていない」。

④以上の「混元」という言い方を総合すると、昔の人が「混元」を指していたのは、宇宙や人体の中の陰陽混沌の気を指していた。宇宙間のいかなるものにも、その特定の「混元」の「道」がある。

『性命圭旨』(亨集)の中で、道家の丹功の角度から、「混元」、「太極」の意味に対して別の一節は次のように述べている:「両親は想いが交わる時、円いだけ、先天の少しの霊光をきらきらと光らせ、母胞にぶつかって、このように○だけである。儒教ではこれを「仁」と呼び、「無極」とも言う。仏教ではこれを「珠」と言い、「円明」とも言う。道教ではこれを「丹」と呼び、「霊光」とも言う。すべてこの先天的な一気、混元から精までを指す。身体の源であり、生命の始まりであり、生命の基盤であり、すべての変容の祖先である。 ......身体の原点は太極から発しているのである。 これは、人体における「混元」の意味について、最も早く記述されたものである。 生命形成の初期における生来の気の陰陽の混在の先天の気を指す。

そのため、太極拳を「混元」という言葉で要約することは、中国古代道家内丹功の精華と核心を受け継いだことを意味する。固爾は、「混元太極」の名で太極拳を命名したが、実際には太極拳の本来の姿と本来の訓練法を回復するための要所であり、「盛名の下で、ついにその実を発揮した」と言える。なぜならそれはまず「拳を練るにはまずその理を明らかにすべき」という「理」の所在が、数千年にわたる中華文明の伝統文化の蓄積である事を我々に教えてくれたからです。次に、この「理」の所在は、宇宙と人体の自然成化の「道」に合致し、万事万物がそうであることを説明する。西洋文化でさえこの「道」を避けることはできない。近代西洋哲学の巨匠カントが提案した宇宙形成の「原始星雲仮説」は、中国古代太極の「理」とは異曲同工(酷似している)なる妙がある。⑤

だから「混元太極」の理論⑥は中国の伝統文化を理論の源とし、それによって、内在的な広く奥深い理の基礎を持っている。


[原文]

 为什么说“混元太极”恢复了太极拳的原本练法

                     张   禹   飞(一清道人)

由一代太极拳宗师冯志强先生创立的“陈式心意混元太极拳“(以下简称“混元太极”)以道家内丹功为基,以陈式太极缠丝内功和心意六合内功为本,以陈式太极拳和心意六合拳为母,建立了科学的、完整的“混元太极”练功体系。它拳功一体,内外双求,性命双修,练形合道。是太极拳发展史上的又一个里程碑,为后世留下了宝贵的精神财富。我认为“混元太极”的精华就在于它恢复了太极拳的原本炼法,还太极拳以本来面目。自己跟随先生习“混元太极”多年,对混元太极之体悟积累了一点心得体会,今借《混元太极》一角与诸位拳友交流,抛砖引玉,聊以自慰。因本人才疏学浅、悟性迂钝,不一定能深刻领会“混元太极”的博大精深涵义,定有挂一漏万、舍本逐末之处,望有道之士不吝赐教是幸。本文从五个方面予以阐述:

1、“混元太极”继承了传统文化之精髓 ;

     2、“混元太极”弘扬了传统文化之大“道”;

3、“混元太极”恢复了古典太极拳的练法精髓 ;

4、“混元太极”保持了中华武术的技击灵魂 ;

5、“混元太极”建立了一个科学的练功体系 ;

一、“混元太极”继承了传统文化之精髓:
    “太极”是中国古代的哲学概念。涵有宇宙本源之义。自有文字记载史考证,“太极”一词始于《周易·系辞》:“易有太极,是生两仪”、“一阴一阳之为道”。此处之“”,可译为“出自于”。“易有太极”就是易经出自于太极。《易纬· 乾凿度》曰:“易始于太极,太极分而为二”。这就是阴阳。我们知道,周易是一部占卜的筮书,占卜就是预测未来,可见,太极之道从时间上说,过去、现在、未来是源于太极之理的。以此言之,太极就是一种天地万物存在的道。《庄子·大宗师》曰:“夫道……太极之先而不为高,在六极之下而不为深,先天地生而不为久。长于上古而不为老。”。此处,六极则是指天、地四方和上下极限之义,太极则是指最大的极限。由上可见,广义的太极,指总括四方上下、涵盖宇宙时空的运行之“道”以及推究万物存在及变化之“理”;而狭义的太极,在中国古代哲学家、经学家那里有几种指称涵义,如:以“元气”释太极《汉书·律历志》;汉·郑玄与王充;唐·孔颖达;宋·张载;清·王夫之);以“”、“”释“太极”( 宋·陈抟与周敦颐);以“”、“释“太极”(宋·邵雍);以“”释“太极”(宋·朱熹与二程)。

    “混元太极”的练功思想正是依据了以上古人的太极之“”与太极之“”。所以冯师阐述了自己的练功思想:“练功须待入静时,不静不见动之奇”、“练拳须从无极始,阴阳开合认真求”。此皆据于太极之理。这一思想是对中华上古时代形成的太极文化的最好继承。依此理,就可达到练太极拳疏通经络、强身健体、内劲浑厚、益寿延年的目的。

“混元太极”不仅依据了“太极之理”,而且特别突出强调“混元”之义。然何谓混元?

考“混元”一词,宋·张君房所辑道家典籍《云笈七签》(卷二)曰:“混元者,记事于混沌之前,元气之始也。”此处“混元”之义,是指元气的开始状态,既可指宇宙,也可指人身。对世间诸事物而言,内混沌混沌之前为混元,精感生真一,和气生混元,气运立天地,化施通万物。

我国古代气功典籍《性命圭旨》曰:“夫天地之太极,一气斯析,真宰自判,交映罗列,万灵肃护,阴阳判分,是为太极,是为‘一生二’也,是曰虚皇。阴阳既判,天地位焉,人乃育焉,是为‘二生三’也,是曰混元”。这段话的意思是说:天地之气原本是茫茫无际、混沌莫测的,包含灵气而又玄妙至极,这就是太乙,称之为“无始”。天地开始之初,元气不断地流动鼓荡,虚空之境忽开忽合,阴阳二气互相感应,黑白二色互相融合凝聚,“有”与“无”互相追逐求取,呈现一派混沌景象,冲淡虚静又神圣至极,在恍惚之中确立了中正的准则,这就是太易,称之为“元始”。天地之太极在混沌之气判分为阴阳二气后,清气为阳上升为天,浊气为阴下降为地,天地阴阳两离分,就是太极,称之为“虚皇”。阴阳二气分离之后,天地各安其所,就有了人,这叫“二生三”, 故称之为“混元”。

   《易纬·乾坤凿度》曰:“有太易,有太初,有太始,有太素也”;“太易变,教民不倦;太初而后有太始太始而后有太素;万物,素质者也;质素未离混元”。综合以上“混元”之说法,即古人所指“混元”,乃是指宇宙或人体中的阴阳混沌之气。宇宙间的任一事物,都有其特定的“混元”之“”。

在《性命圭旨》(亨集)中,从道家丹功的角度,对“混元”、“太极”之义另有一段描述如下:“父母一念将媾之际,而圆陀陀,光烁烁先天一点灵光,撞于母胞,如此而已。谓之“”,亦曰“无极”; 谓之“”,亦曰“圆明”; 谓之“”,亦曰“灵光”。皆指此先天一气,混元至精而言。实生身之源,受气之初,性命之基,万化之祖也 …… 究竟生身本原,皆从太极中那一些儿发出来耳”。这是最早对人体“混元”之义的描述。它是指生命形成之初始的阴阳混合先天之气而言的。

因此,用“混元”一词来概括太极拳,又意味着继承了中国古代道家内丹功的精华及核心。固尔,以“混元太极”之名来命名太极拳,实是恢复太极拳本来面目和原本练法的至要所在,可谓“盛名之下,终赋其实”。因为它首先告诉了我们:“练拳须明理”的“”之所在,是几千年中华文明的传统文化积淀。其次说明,该“”之所在,乃是指符合宇宙与人体的自然成化之“”,万事万物皆如此。就连西方文化也不能避开此“”。近代西方哲学大师康德提出的宇宙形成的“原始星云假说”,与中国古代太极之“”颇有异曲同工之妙。

所以“混元太极”的理论 是以中国传统文化作为理论渊源的源头,从而,就具有了内在的博大精深之理的根基。



2022年9月1日木曜日

混元太極拳に関する張禹飛老師論文 その1

 1998年12月に書かれた張禹飛老師の論文をホームページに掲載しているが、中文なので誰も見ないと思い。これから少しずつ日本語訳を上げていきたいと考えています。

なぜ「混元太極拳」は太極拳の元来の練習方法を回復したと言われるのか

                     張禹飛

太極拳の大家、馮志強先生が創始した「陳式心意混元太極拳」(以下、混元太極)は、道教の内丹功を基礎に、陳式太極纏絲内功と心意六合の内功を母体とし、科学的で完全な「混元太極拳」の練功システムを確立しています。その拳と功(内功)は一体であり、身体の内と外を共に求め(身体の内なる内功を練りつつ、外の拳も練る)、性と命を共に修め、形を練る事で道に適う練習です。これは太極拳の歴史におけるもう一つの一里塚であり、後世に貴重な精神的な宝物を残したといえる。 私は「混元太極拳」の真骨頂は本来の修練を取り戻し、本来の面目を回復している事にあると思います。 私は長年(馮志強)老師に付き従って、混元太極拳を追いかけてきて、混元太極拳に関する見識や体得を蓄積してきましたので、それを皆さんと一緒に「混元太極拳」の一部を拳友諸氏と共有し、レンガを投げて玉を引く(拙い意見を述べて、貴重な意見を引き出す)事により自分を慰めたいと思います。 私は学も浅く、理解力も鈍いので、必ずしも「混元太極拳」の深遠な奥義を理解できていないので、きっと多くの点を見落とし、本質を外し枝葉末節に走ってしまったと思いますので、良識のある方々のご助言をお願いします。 この論文では、5つの側面について詳しく説明したいと思います。

1.「混元太極拳」は伝統文化の精髄を継承している。       

2.「混元太極拳」は、伝統文化の偉大な「道」を継承している。

3.「混元太極拳」は古典太極拳の練習方法の真髄を回復している。

4.「混元太極拳」は、中国武術の技撃の魂を維持しています。

5.「混元太極拳」科学的な練習体系を確立しています。

 

I.  「混元太極拳」は伝統文化の精髄を受け継ぐ

:「太極」は中国古来の哲学的概念である。 宇宙の起源という意味を持っています。 文字の歴史が証明しているように「太極」という言葉は、《周易·系辞》に始まる。即ち「易に太極あり、両儀を生ず」「一陰一陽を道となす」と示されている。 この文脈での " "は、"~から来た"と訳すことができる。 "易は太極を持つ "とは、易経が太極から来たものであることを意味します。『易緯・乾鑿度』によると、「易は太極に始まり、太極は分かれて二となる。」という。これが陰陽です。周易は占いの筮書であり、占いは未来を予測することであることを知っている。周易は占術書であり、占術とは未来を予測することであることが分かっている。太極の道は時間的に言えば、過去、現在、未来は太極の理に由来している。つまり、太極は天地万物の存在の道理である。 荘子-大師曰く、「道....は太極の先にあって高さを為さず、六極の下にあって深さを為さず、先天的に生まれて久しく為さず。上古に長けて老いを為さず この場合、六極は天地四方の意味と上下限を指し、太極は最大限を指す。 以上のように、広義の太極とは、四方や上下、時間や空間における宇宙の営み、万物の存在や変化を知らせる「道」を指し、狭義の太極は、古代中国の哲学者や書記の間で、次のようないくつかの意味を持つことが分かっている。 狭義の太極は、古代中国の哲学者や経済学者間で、「生命エネルギー(元気)」の意味での太極(『漢書・律暦志』、漢-鄭玄・王充、唐-孔英達、宋-張作、清-王夫子)、「図」、「神」で「太極」を解釈する(宋・陳と周敦頤)、「道」、「心」で「太極」を解釈する(宋・邵雍)、「太極」を「理」で表現する(宋・朱熹と二程)です。


2022年8月9日火曜日

意が先行する套路

 意が先行する套路というのも変な話ですが、太極拳はそもそも意を用いて力を用いないと言われており、意で套路を打つのが当たり前なのです。ところが日本では意で套路を打つ事が当たり前になっていない事が大きな問題と言えるでしょう。そもそも意念という概念が日本にはありません。従い必然的に套路を意念で打つ事なく単なる運動になってしまっている訳です。もう一つの原因は制定拳にあると言えるでしょう。制定拳は動作の角度等を煩く言う人は多いみたいですが、意で打つ事をやかましく言う人があまりいないと聞いています。あまり意念を重視していないものと推察されます。違っていればごめんなさい。
套路は意が先行し、それに従って氣が動き、最後に体が動くように打つ事が重要です。太極会ではこれを達成する為にまず指で人を動かす事を練習しています。指だけで意を用い、相手を動かす練習です。これが出来るようになれば意で套路を打つ意味も分かるし、又できるようにもなります。そうすれば氣が全身を駆け巡り健康体を作り出す一助にもなります。太極拳の健身効果が単なる運動から来るものではなく、一つには氣を全身に巡らす事によってもたらされるものだと分かります。馮志強老師は晩年椅子に座って套路を打たれており、そう私にも仰っていましたが、要は意で套路を打っていたのです。


2022年6月5日日曜日

「散」と「精」

 気功や太極拳を打つ時は「散」になってはいけないと言われている。「散」とは意識が拡散した状態です。「散」で気功・太極拳を打つと意識が凝縮されていないので氣が思ったほど動かないという現象になります。要は内功(気功)にしても太極拳にしても意念で氣を導いていくので、意念は鋭く凝縮している必要があります。この状態を「精」と言います。身体がファンソン(リラックスして膨張しているような状態)となる必要がありますが意念(強い意識)は鋭く、強くなる事が基本です。これが套路を打つ際には一番大事な事ですが日本で太極拳をやって居られる人が一番欠けているのもこの「精」の状態です。そもそも意念という概念が日本に無い事が根本原因だと思われます。本来意念で氣を導き内功の一環として套路を打つべき処を単なる運動に貶めているのが多く見られる弊害です。このような套路の打ち方を馮志強老師は労働と言われていました。この労働を早く脱すれば太極拳はみるみる上達していきます。皆さんもこの事に注意、注力される事をお勧めします。

2022年4月30日土曜日

内功とその深化

 ある時馮志強老師との雑談の中で、内功をしていたら神が入ってきたと言われた事があります。この事を小生の体験を踏まえ話してみたいと思います。内功(武術の気功)の際に特に站椿功(静かに立ち雑念を退けた状態)の際に無極の状態(雑念が無い状態)が続くと外界と身体の区別がつかなくなり溶けていって意識のみがはっきりとした状態になる。その時に外界の気が身体の中にサーと入ってくるようになる。恐らく今までは自我が外の気を撥ね退けていたと思われるが、自我が落ちた時に外の気が大量に入ってくる。この事を指していると理解できる。この状態では気が自由に身体の外と内を出入りし始める。そうなると自分は遍く遍在する氣と一体になり、自分はここに在るが同時にそこら中に偏在しているという2つの状態が同時に成り立っている。この状態の時に人が前に立てば自分は遍く遍在しているのでその人の後ろから気でその人を押す事もできるし、横から押す事も可能になる。これは私がそう思っただけでそうなるのです。太極拳でよくある内気を使っているのではなく、外気を使って人を動かす事が可能になります。皆さんも遊びがてら試して下さい。さてこれで組手をするとどうなるかですが、通常組手の際に意識は前に行っています。然し乍らこの状態では前にいかず意識が偏在しています。従い、相手の後ろや横から崩す事が可能になります。少し崩せば相手はいつくのでこちらの攻撃が容易になるという事です。

2022年4月1日金曜日

攻防の要諦

 太極拳の散手(組手)に於ける攻防の要諦は何かと問われれば

①2人での攻防も2人で1人の感覚で組手を行う事に尽きると思われます。

2人で1人とは太極拳で良く言われる「捨己従人」です。自分を捨てて、相手に従う、又は相手を受け入れる感覚になるという事です。この時何が起こるかという事ですが、2人の気が一体化されます。気が一体化されると相手の動作が自分の事のように分かってきます。この状態で相手と対すれば相手の動きが起こる前から相手の次の動作が分かるようになってきます。この相手の動きがないが、その機がある状態を「太極」と言います。要は太極をはっきり把握する事です。そうすれば相手の攻撃が容易にかわせたり受けたりできるようになってきます。又相手が突いたり、蹴ったりしてきても、それをこちらの手で受けいれるようにして受ければあまり触れずに相手の手が逸れていきます。あくまで敵対せず自分を捨てて相手も受け入れるようにする事が肝要です。こういう感覚で組手を続ければ次第に太極拳の組手が完成されてきます。

②自分を捨てて相手に従う状態となれば「聴勁」が磨かれてきます。聴勁とは対象を設けて聴くのではなく対象と一体となって聴くのです。この聴勁は無極を深める事と「捨己従人」によってレベルを上げる事ができます。無極の状態は必ず自分を捨てる状態となっています。この無極がいかに深いかが勝負の分かれ目です。無極が深ければ深いほど聴勁の感度は上がってきます。これが次の迅速な対応に結びつくという訳です。

上記は言うは易く行いは難しです。要は練り込んでいくしかないでしょう。

2022年3月7日月曜日

制定拳が基礎になるのか?

 よく耳にする事にまずは制定拳で太極拳の基礎を学んで伝統拳を学んでいくという事です。然し乍ら伝統拳を担うものとしての観点からはこの考えは全く当てはまりません。その証拠に伝統拳を担う方から基礎としてしっかり制定拳を学びなさいという言葉を寡聞にして聞いた事がありません。しかも伝統拳で大切にする基礎が制定拳では全くと言って良いほど抜けているという事です。制定拳を主体に考えれば伝統拳も同じ事が言えるかもしれませんが。即ち制定拳から見れば伝統拳は基礎が抜けているという事かもしれません。

では伝統拳から見てどのような基礎が抜けているかといえば下記が上げられると思います。

1)勁が無いという事です。

勁が無いという事は伝統拳から見ればもはや太極拳では無いのですが、見事に殆どの方に勁がなく踊っているようにしか見えない方が多いというのが実感です。書物を見ても簡化24式は動きの解説はあっても勁の解説を見た事がありません。従い、勁を重視していないかもしれません。

2)内気の充実が見られない。

練り方が悪いのか、内功法が無いのか、いずれにせよ内気があまりなく拳に威力がありません。ゆっくりと動く事と威力が無い事は別です。ゆっくり威力を出していって初めて太極拳と言えるでしょう。

3)太極を求めているとは思えない。

太極拳ですから当然「太極」を求めていくわけですが、「太極」を求めているとは思えない騒がしい脳内となっている事が往々にして見受けられます。これは基礎というには少しレベルが高いですが、基礎の段階から目指す必要はあると思われます。

上記の状況ですので制定拳から太極拳へ行くというルートはあり得ないと思われます。基礎が抜けているからです。反対に制定拳からみたら伝統拳も基礎が抜けていると思えるでしょう。例えば良く言われる批判は形がバラバラで規範が無いという事です。

これに対する小生の回答は伝統拳では拳理で型を押さえる事にあります。体形等も人それぞれです。それを統一した外形で押さえていく事よりも拳理で押さえる方が合理的と言えるでしょう。

しかしながら勁が無い制定拳から見れば伝統拳の言い分はなかなか理解できないでしょう。勁が出ない制定拳にどっぷり浸かった人から見れば勁自体が理解できないからです。

従い、両者の太極拳は恐らく交わる事は今後共無いというのが実感です。



2022年2月2日水曜日

無極桩(站桩/zhan zhuang)

 無極桩(むきょくしょう)別名「站椿功」には流派によって色々なやり方があると思います。無極桩は丹田に内気を養う築基の気功ですが、まずその外見上の形は命門が外に突出する事が肝要です。これを気功では命門が開くと言います。まず初心者や門外漢の人に向けて説明すると命門は気功のツボで位置としては丁度お臍の反対側に当たります。ここが開けば命門が後ろにやや突出する形となります。多くの太極拳では背中側が真っすぐになると教えている処が多いように思います。然し乍ら気功に於いては命門が開いている事が重要であるの事は比較的良く知られている事実です。套路(型)は気功として打つ(套路を行う事を打つと言います)ので命門が突出するわけです。このような命門に対する要求以外の要点を以下述べてみます。

①意識は丹田に集中します。これを「看着丹田,听着丹田,想着丹田」と言い丹田を看る、聴く、想う事になります。こうして丹田に意識を集中すれば気が丹田に集まります。意識が至る処気が至ると言われており、どの場所であれ意識が至れば気が至るのですが、丹田が体の他の部位と違うのは気が一旦集まれば逃げないという事です。従い、丹田は気の海、気海と呼ばれています。このような事を発見した昔の人達は素晴らしいですね。

②意識が丹田に集中すると頭が下がる傾向にあります。従い、顔を起こし、顎を引き真っすぐ前を見ます。その際に意識も前方の一点に飛ばします。

③その後意識を眉間から体の中に入れ、目を閉じます。中に入れた意識は丹田に落とします。

④その後ゆっくりと目を開け、2-3メートル先の地面が視界に入るまで目を開けます。この時に意識は外に出さずに前の地面も見る事はしません。見えている状態にしておくのみです。意識は丹田に集中します。

以上が無極桩(むきょくしょう)の概要です。



2022年1月2日日曜日

内功と功夫

 一般の人には馴染みの無い「内功」と「功夫(こんふ)」について述べてみたいと思います。一般に功夫と言えば修練による力や際立った技(わざ)を指しますが、太極拳で功夫と言えば多くの場合内気(ないき)による力を指します。この内気を一般の方はよく御存知無いと思いますが、内功を積めば増大する内なる気というのが適当かと思います。そんな事があるのかと思われる方も多いと思いますが実際に内功を積めば内なる気が充実してくるので自分で実感できます。又内なる気が大きい人に触れればその力の大きさが伝わってきますし、筋力の力とは違った質感があります。この内気が大きく、必然的に力が強い人を功夫の高い人と太極拳では呼ばれています。この内気を高め、功夫を上げる方法の一つが内功法です。実は套路を練ってもその練り方次第では内気を高め、功夫を上げる事は可能です。然し乍ら陳式太極拳の宗家に伝わる内功法は単に内気を高めるだけでなく、健康にも寄与するとも言われてきました。というのも、そもそも太極拳は自分を守る武術なので、暴力、病、等の様々な外敵に対処できるよう作られているからです。更に混元太極拳ではその陳式の秘伝の内功法に心意拳の内功法もプラスしていますのでその効果は計り知れないものがあります。疑われる方は是非一度体験して下さい。お待ちしております。

2021年12月6日月曜日

上達の近道

 太極拳を学ぶ上でどうすれば早く上達できるかは皆さんが等しく関心がある事と思います。この点に関し、最近色々な人を指導する中でこうすれば速く上達するというものが見えてきましたので、ここで皆さんとシェアしたいと思います。

まず何処かで述べたかと思いますが太極拳の身体操作の感覚と套路の招式(動作)はOSとアプリの関係にあると言えます。アプリをどれだけ増やしてもOSを入れない事にはアプリはうまく動きません。このOSを入れる事を最優先にして下さいと言っています。中国ではこの事を套路を練り込みなさいと教えます。套路を練り込むと内気を伴った招式となり、勁が出、又気も出てきます。又一招一式、内的な身体感覚がこの套路を設計した人の意図通りとなってきます。この段階に達するとある程度OSを得たと言えるでしょう。例えば混元太極拳では混元球の感覚と混元球をエンジンとする纏絲勁が実感されます。このOSを得た時に初めて招式を増やしていく事が上達の近道であると考えています。小生が主宰する太極会ではまず8式を徹底的に練り、このOSを獲得します。その後13式、24式、48式と招式(アプリ)を増やしていき最終的には83式の一路にたどり着きます。最近行われた表演会で他会の先生方からも多少のお世辞はあるにせよ太極会の生徒の比較的早い進歩に対しお褒めの言葉を頂き、この方法が間違っていなかったと確信しています。

2番目に最初は套路の形をやかましく言うより意念を大きく、強く使っているかどうかを問題にする方が早く上達するという事です。日本には意念という概念がありません。この意念を使えるかどうかが上達には大きく影響してきます。というのは意至る処気至ると言われており、意念を使えば気が動くので、ワザの掛かり方が全然違ってきます。形に拘泥していると意が委縮して元々意念を使えなかったのが益々使えなくなり、形が整った後も意念が出ない事になります。私が受け継いだ陳式太極拳では套路は意で打つものと言われており、意念が極めて重要です。従い太極会では意念を使った押し合い等を練習に取り入れています。

3番目は上達の速度を早くしたいのならOSを2つ同時に入れない事が重要です。太極拳に引き直して言えば陳式と楊式を同時に習う事は進歩の速度を遅くするという事です。同じ太極拳でもOSが全く違うので身体が混乱し、どちらの身体操作を使うのか分からなくなる事態が生じます。

4番目に内功を中心に練習を行うという事です。内功を行うと早く内気が充実してくるので各招式の身体感覚が得られやすいという事です。各招式の意味を体で納得するので上達が早くなるのです。

以上が早く上達するポイントです。皆さんの上達の一助になれば幸いです。


2021年11月19日金曜日

太極拳が積極的な休息である理由

 馮志強老師は太極拳は積極的な休息と度々言われていました。その意味を以前は良く理解できていませんでした。これは運動や仕事との対比に於いて言われているものと解釈しています。例えば運動であれば体を使います。メインの作業は体を動かす事にあります。然しながら太極拳に於いては体を動かす事がメインではありません。意念を使う事がメインとなり、套路は何度も何度も練りこ結果自然と体が動く為、あまり体を使うという意識がなくなってきます。従い、静けさの中で意を用いる事がメインとなってきます。体はどうかというと放松(ファンソン)といってリラックスさせています。従い、休息と言われた状態に近いものがあります。 一方仕事はどうかというと頭を積極的に使います。然しながら太極拳の套路に於いては頭の中は静かになっており動作に集中した状態になっています。従い、頭は休息していると言えるでしょう。体も頭も休息しているので積極的な休息と言われたものと理解しています。

2021年10月2日土曜日

無極

 ある時馮志強老師と会話をしていた時に「内功をしていたら神が入って来た事がある。」と言われました。私は咄嗟にどう返していいかも分からず、ただお話をお聞きしていました。今では私の感覚では無極が極まった時に周囲の自然、宇宙と一体になる感覚があるが、ひょっとしてそれを言われていたのではと思う。馮志強老師は太極拳の老師でしたが、実は太極拳を通じて太極を追求された老師であると言えると思います。常に太極を問題にされていました。ある時に拝師の弟子が集まるミーティングがあり、なぜかその時には拝師していない私も馮志強老師に連れて行かれました。そのミーティングの主題が話される前に馮志強老師が太極を説かれていたのを覚えています。又、よく無極が大事である事も言われてしました。無極とは太極拳論に出て来ますが形而上の概念ではなく我々が修行の中で追及し体感すべきものと了解しています。ノイズを徹底して排除した無極に立てば相手を含む周りのノイズが手に取るように分かるものです。相手が行動を起こそうと意が出てくる処もよく分かるようになります。私はほんの少しばかりの体験ですが、これが極まれば更にセンサーの感度が高まるのを実感しています。この無極に至る一つが「捨己従人」と言われる言葉です。太極拳をやった事がある人は耳にした事があるでしょう。日本語に訳すと「己を捨てて相手に従う」という事です。ではこの「捨己従人」は具体的にどのように行えば良いのか。この方法が分からず無極を諦め、太極から離れていっている人が多いのではないでしょうか。その方法の一つが自我、念が出てきたら切り捨てる作業を行う事です。このように作業を進めていけばいずれ念が出てきません。又出ようとする時が分かるようになり、すぐ切り捨てる事ができるようになります。では自分を捨てきってしまえばどうなるかですが、自分を捨てて相手に従って動いているうちに相手の気と自分の気が一体化してきます。この状態で相手が押したりして来てもその力(勁)を一瞬にして無力化できます。これを太極拳では化勁と呼びます。相手の力をそらず事が化勁と思っている人が多いようですがそれも化勁と言えない事もありませんが、次元の低い化勁と言えます。この次元の低い化勁をいくら繰り返しても次元の低い化勁の中でうまくなるだけです。「捨己従人」を行ってこそ次元を上げる事ができるのです。「捨己従人」を行って常に「無極」に立ってこそ「太極」が分かります。最近では太極拳を行っていても「太極」や「無極」に関心が無い人が多いのはどうしてかと思います。「太極」や「無極」に関心が無ければ敢えて時間のかかる太極拳をやる事もないように思えるのですが。

2021年9月1日水曜日

陳発科老師の陳式太極拳は何処へ?

 以前にも書きましたが、陳発科の息子である陳照圭先生と馮志強老師との関係は兄弟のようだと聞いていましたので、その関係を馮志強老師にお聞きした事があります。そこで私は予てからの疑問の一つである陳式太極拳の内功法がどうして陳照圭老師に伝わっていないのかをお尋ねしました。そうすると馮志強老師は遠くを見るような悲しいお顔で実は陳照圭老師が最後に出張に出かけた時に、彼が戻って来た時に伝える積りだったと言われていました。1981年に陳照圭老師は陳家溝の四天王と言われている人達に陳式太極拳を教えに行かれ、その時に脳梗塞で倒れて帰らぬ人となりました。このように北京陳式の中にあっても全ての人が宗家の功法を得た訳ではありませんでした。然し乍らこの陳式太極拳の秘伝の功法は我々の中にあります。また陳発科の最後の改変となる混元太極拳も我々の中にあります。北京陳式は陳式宗家の各種功法の宝庫と言えるでしょう。勿論宗家以外に伝わっている陳式太極拳が悪いとか劣るとかを言っている訳ではありません。それぞれの発展を遂げ素晴らしい太極拳となっている事は想像に難くありません。ただ陳式太極拳を志した人達にとっては宗家の拳、功法、秘伝はやはり垂涎の的であり興味がわくものと言えるでしょう。現在では陳発科の弟子や孫弟子が北京で陳式太極拳を連綿と伝えていっています。山東省の洪均生の孫弟子も北京体育大学等で御活躍です。かかるが故に陳式宗家の太極拳のメッカと言われる北京には毎年多くの方が訪れます。

ある時洪均生かその弟子かれましたが、陳発科の逸話についてコメントされた事があります。陳発科は陳延熙の正嫡でしたが、幼少期は太極拳の練習を殆どする事なく周囲の人達は陳氏太極拳が陳発科の代で途切れてしまうと噂をしていました。ある時父が長期に出張する際に集まった人達が漏らしていたその話を陳発科は聞き、その後人の何倍もの練習をこなし、親戚の実力者を追い越していったとの事です。後にある人はどうしてそんなに強くなったのか、どのような練習をしたのかと陳発科に聞いた処、陳発科老師は「何も皆と変わった事をした訳では無い。」と答えました。 これに対し洪均生かその弟子のコメントはこの言葉はその通りに受け取るというものでは無い。多くの練習を重ねた事は事実だが、宗家にだけ伝わっているものもある。斯様に言われたとの話を聞いた事があります。

現在小生は北京陳式太極拳協会を日本で組織し、年に一回北京陳式の各老師に御参集頂いていますが、この目的は北京陳式の各種功法の棚卸に他なりません。この交流は未だ始まったばかりですが、既に興味深い事実も色々浮かび上がってきています。又現在陳照圭老師の弟子である馬虹老師の弟子の方と交流がありますが、その中で陳式太極拳の内功法をお伝えする事ができれば馮志強老師の思いも満たす事が出来るかも知れないと考えています。

2021年7月31日土曜日

勁が見える人と見えない人

 最近様々な人に太極拳を指導してきて思う事は「勁が見える人」と「勁が見えない人」がいるという事です。通常は太極勁を数年練功してきて初めて勁が見える人が多いようです。勁が見え始めると私が打つ套路を見て動きが違うと言い始めます。かくいう私も最初は勁が見えませんでした。然し乍ら練功し始めてすぐに勁が見える人もいる事が分かりました。小生の太極会では今迄3人にそのような人にあたりました。勁が見えても即座に上達する訳ではありませんが、上達の速度は速いと思われます。というのは常に自分の動きに納得がいかず自分で試行錯誤して修正し続けるからです。この勁が出ているかどうかは初心の間は非常に重要なコーナーストーンになります。小生が北京で太極拳を習い始めた頃は馮志強老師の勁が全然見えませんでした。一方張禹飛老師の勁はハッキリと見えました。当時馮志強老師の套路は暗勁で打っていたものが多く、その為勁が見えにくいというという訳です。張老師は套路を明勁で打っておられた為に勁が良く見えたという具合です。張老師は当時、馮志強老師に習った人達の多くが明勁でもなく、暗勁でもない、勁が出ていない人が多いのを苦々しく思って居られました。その為小生には楷書の混元太極拳を明勁で伝授したのでした。私が現在楷書の混元太極拳を広めているのも以上のような理由があるからです。皆さんも各招式の勁を正しく理解し、まずは明勁で套路を打つ事から始めて下さい。そうすれば上達の速度も上がるでしょう。

2021年7月2日金曜日

松(ソン)と緊(ジン)

 太極拳では放松(中国語ではファンソンと発音します。)が非常に大事と言われています。その理由は放松ができるようになると発勁が強力になり、勁が整ってくるようになるからです。然し乍ら多くの方は自分では放松が出来ていると思っていても出来ていない事が往々にしてあります。この放松を体得するのは非常に難度が高いと思われます。然し乍ら陳式太極拳(ここでは陳発科の系統の陳式太極拳の事)では套路の練り方にこのファンソンを体得する方法が埋め込まれています。それは放松と緊張を今後に繰り返す事によって放松を深めていくのです。これを松(ソン)緊(ジン)を繰り返すと言います。初心の内は体が緊張していますから、この放と緊の振れ幅が大きくありません。然し乍らこれが少しずつこの振れ幅が大きくなっていくのです。松(ソン)も深く、緊(ジン)も深くなり、最終的には素晴らしい拳となっていくのです。これは身を持って体験していますし、生徒を見ていてもその過程がよく見て取れます。一方楊式太極拳を見ていると終始放松(ファンソン)の太極拳だと見て取れます。ただ、いきなりそこに到達する事は容易ではなく、何らかの要訣があるのでしょう。さもなければずっと緊(ジン)で套路を打つ事になり、成長が見込めません。ここはその門派に入らなければ分からない処です。制定太極拳等は伝統拳のグランドマスターが居られない為これらの要訣を欠いているのではないかと推測されます。その意味ではどの太極拳でも良いので伝統拳をやる必要があるのではないでしょうか? 陳式太極拳ではこのソン、ジンに呼応するかのように開合があります。これは動作や形の開合だけではなく、意念の開合が重要な要素となってきます。このソンジンと開合が基調となって体を作り上げていく事になります。

2021年6月4日金曜日

太極拳理論の要諦

 銭育才先生が書かれた「太極拳理論の要諦」の序文に下記のような言葉があります。


若い頃、私は太極拳の道を求めていました。しかし、正しい道に入らなかった。技だけを求めてしまったのです。漠然とした套路の練習だけで極意に到達できるとは信じられなかった。はじめは推手も単なる技術と思っていました。これを求めて求めて・・・二十年を無駄にしました。違う、考え方が全然違う。だから経典に戻るしかないのです。


私も上記に全く同感です。技だけを求めると此の道に到達できない事が最近になってやっと分かってきた次第です。推手も単なる技術ではない事もようやく身に染みて分かるようになってきました。すなわち推手が要求するのはある心的状態であるという事で、それが一番大事だという事です。あくまでこの拳は太極を追求するように出来ているというのが最近の実感です。この太極拳が自分の求めている拳ではないと途中で脱落する人、離脱する人の多くは技(ワザ)だけを求めている人のような気がします。逆に太極拳が我々に求めているものが見えていないと思えます。太極拳は我々にとてつもない心的状態を求めており、拳技の向上はその状態を抜きにしては考えられないという事です。又強くなる為に太極拳に入ったにも係わらず、その心的状態を持ち続けていると他者と争う、競う気持ちがなくなるというアイロニーにも陥って行くのです。それは無極の深さを体現した時に出て来る他者との一体感でもあるのです。馮志強老師は常々無極の重要さを語られていました。昔、それを聞いた時には聞き流していましたが、今更ながらその重要性に気づかされますし、そこに師恩を感じ感謝しかありません。


2021年5月2日日曜日

内部の表演会

 この1年はコロナに振り回された1年でした。毎年功夫会という表演会を秋に開く為、太極会の会員さんは表演を行う機会があるのですが、この1年はそのような機会がなかった為に教室毎に表演をして貰い、ビデオに収めて、それを皆で鑑賞するという形を取りました。そうすると同じ套路をやっている他の教室の人も見る事ができ、非常に勉強になるからです。この企画はまずまず好評でしたが、多くの人から寄せられた意見は自分の套路は見るに堪えないという事でした。要は自分が套路を打っている時に頭の中で描いている自身の姿とビデオで見た自身の姿の差があまりに大きく愕然とするとの事でした。この感想は初心者には特に多く頂きました。恐らく次第に熟練してくると自分が思い描いている姿に近づいてくるものと思われます。それでも自分の動画を見るのはいつになっても嫌なものです。不思議なもので動画にすれば自分の欠点がいつも大写しで出て来るのです。従い、自分の欠点を知るのには良いのですが、とても人に見せられるものではありません。又、師匠の生前の套路が頭に焼き付いているので、それとの差も認識させられるという問題もあります。さわさりながら私の場合は普及の事を考え最小限の動画は出していますが、自分が上手いので見て下さいという気にはなれません。自分の動画が良いと思って露出している人は大したものだと素直に感心してしまいます。最近もある大会で表演する機会に恵まれ表演しましたが、自分が思っているよりも功夫が無い事を気づかされました。この1年でなんとか自分で自信を持って動画を出せるようになりたいものです。

2021年4月2日金曜日

北京陳式で推手大会が無い理由

 北京陳式では練習方法としての推手は日頃から行っており、又北京陳式の大会等もありますが実は推手大会がありません。推手大会が無い理由を小生なりに考察してみました。 推手は元々聴勁を養う為に行われるものです。従い、聴勁が出来て相手に勝ったのかどうかが重要になります。聴勁の感度を上げるにはどうしてもこちらから意を出さない事が重要になってきます。こちらが意を出さない状態で脳内が静かになっていると相手の勁が良く感じられるようになってきます。又意がでると気も出るので相手とは調和する事が難しくなります。調和ができないと感度が落ちてきます。意が出ない状態だと気が出ずに相手と気が反発しあう事は無くなります。気が反発しあう事がなくなると調和ができるようになります。調和ができると相手の勁を聴く事が格段にやさしくなります。さてこの状態をいかに作り上げていくかが重要になると思いますが、競技となった場合どうしても意が出やすくなり調和が取りにくくなります。まさに求めている状態と反対の状態になりやすいというのが正直な感想です。競技は勝敗を決める場です。一方推手は本来勝敗を決める必要の無い場で、自分の静けさをキープしていればそれで良いのです。その静けさの深さを掘り下げていく場が推手です。このようにして考えると北京陳式では推手の練習はするものの競技としての推手が無いのも一理あると思われます。だからと言って競技推手が悪いと言っている訳ではありません。そのような競技の状況でも静けさをキープできれば問題はありません。ただ一般には競技の勝敗に拘ると本来の目的から外れてしまうので、そこを懸念して北京陳式では競技にしなかったのではと推測されます。


2021年3月1日月曜日

明勁、暗勁、霊勁

 今回は明勁、暗勁、霊勁の話をしたいと思います。
太極拳にはこの3種の勁があります。明勁から説明すると丹田の力が手先、足先に伝わったもので筋力を力に使わず、筋力を力を伝達する道具として使うものです。中途半端に筋力を力の源泉として使うと丹田のちからと同調せず、この力を受ける者も非常にごつごつした違和感を感じます。

次に暗勁ですが、丹田の力というよりかなりの部分が気の力を使うというものです。従い、触れている部分の摩擦が殆どなく相手を崩す事ができるものです。太極拳も中級になってくると暗勁を使い始めますが、この時太極拳で言う処の「用意、不用力」となっています。意念で気を動かすので意は使うのですが、通常の力は使わない事になります。

最後に霊勁です。完全に意だけを使い相手に触れずして相手を動かす事ができます。これを使えるには自分を捨てて相手と一体になる事が必要です。結局これは相手の気を使っているのです。元々相手の気と自分の気は区別がありません。区別をしているのは自我です。自我を捨て相手と一体になれば相手の気も自分の気の如く使えるのです。一見不思議に見える霊勁はそのような作用をしているだけです。

2021年2月1日月曜日

北京陳式太極拳の楽しみ方

 以前どこかで書いたと思いますが、馮志強老師はこの陳式心意混元太極拳は自分が創ったものでなく、陳発科老師が創ったものだと仰いました。陳式太極拳の套路を7か所変えたのは陳発科老師で自分は陳発科老師の指示に基づき他の箇所を7か所変えて創ったと言われました。陳発科老師が徐々に陳式太極拳を改良され、改良される度に馮志強老師にお伝えしたそうです。ある時馮志強老師は改良される前の套路を練っていた処、陳発科老師に後戻りする必要は無いと叱られたと言われました。それ以降馮志強老師は自分で練る時はこの改良された套路を練ったそうです。但し、対外的には従前の套路で表演等されていたそうです。発科老師の指示に基づいてその他の7か所を改良した後、世に出したと言われています。従い、陳発科の弟子は従来の北京陳式の套路を教えられた人はそれを練り、陳式心意混元太極拳を授けられた人はそれを練る事になります。その他の地域で伝えられている陳式太極拳の套路を練る事はありません。套路以外では陳発科老師から伝えられた各種功法を練る事になります(これら功法は拝師の弟子にしか伝わっていません)。そうするとどういう事になるかと言えば徐々に陳発科老師、馮志強老師のフィロソフィや身体感覚を追体験するようになってきます。陳式に関する套路を全て練った場合がどうなるかは分かりませんが、逆に一人の宗家の套路を練り込むとその人に考え方も姿を現してきます。これが北京陳式太極拳の面白い処と言えるでしょう。身体を通して宗家の考え方が分かるのは何とも面白い事ではないでしょうか? 太極拳を通じ太極の理を学ぶ事も大きな楽しみであると同時にそれを体現された宗家の考え方が伝わってくるというのは1つ食べて2度美味しいという感じです。この感覚は多くの人に味わって貰いたいと考えています。

2020年12月31日木曜日

勁と気の出し方

私が主催している太極会では勁が出ているか各招式毎に検証しています。実際にワザを掛け合って相手が動くかどうか確認しています。ですので上級者で勁が出ていない事はあまりありません。勁が出ていないと自分自身がワザをかけた時に思い知る事になるわけです。然し乍らこのような勁を検証していない場合は往々にして勁が出ておらず太極ダンスを踊っている事が少なくありません。日本で簡化太極拳を行っている人の多くは太極ダンスとなっていますが、それはそれでご本人が満足であれば問題はありません。そもそも教える方に勁が出ていない場合が多いので仕方が無いでしょう。但し、勁が出る本来の太極拳を打ちたいのであれば以下、勁の出し方を御紹介します。
まず相手をゆっくり押してみる事とします。その際にお腹(丹田)から力を絞るように出してみて下さい。注意点は肩、肘の力を抜く事です。そうすれば相手はゆっくりと動くはずです。これを繰り返し行えば押す事に関しては勁が出るはずです。太極拳として套路を打つには更に気を用いる事が重要です。今言った方法で勁が出れば今度は押す方向に意念(強い意識)を出すと気が出ます。そうしてゆっくり押すと相手は先程より大きく動くはずです。
こうして一つの動作に勁と気が出るようになるとその他の動作も順次同様の方法で変えて行って下さい。自分で一つでも勁が出るようになると勁が出ていない箇所が徐々に気づくようになります。こうして太極拳となっていきます。以後は勁と気を大きく強大にする方向に套路を打つ事になるでしょう。

2020年12月2日水曜日

外から見た混元太極拳

 ある時道友のT氏ととある表演会で偶然一緒になった。偶々その表演会で混元太極拳を表演される方がおられ小生も見学していたが、その時そのT氏は混元太極拳は身体を練る套路ですねと言われた。套路は全てが身体を練るものですが、T氏はそれは100も承知で言われたと思う。即ち、練るのに非常に適しているという意味と本人の套路の練度が如実に表れるという意味かと感じた。確かに纏絲勁は満載であるし、それを混元球の上に載せて使う箇所も多くあるので本人の段階が今どこにあるかは本当に分かりやすい。但し、練る方からすると非常に難解かもしれないと思う。正しい指導者がいないと殆ど明後日の方向に行ってしまいかねない。 小生が北京で馮志強老師に混元太極拳を習っていた頃、他の兄弟弟子は絶対に口出しをしない。なので小生の套路が間違っているかどうかは分からない。ある時に地壇公園で練習後に師兄弟に套路に関する質問をした事があるが、馮志強老師が教えてられるからとの理由で答えられなかった。唯一張禹飛老師は小生の誤りを的確に指摘して頂いた。それがなければ混元太極拳を正確には理解できなかったと確信している。全ての動作を明勁で示して頂いたから現在楷書の混元太極拳を伝えられると思っています。

太極拳で大事な事は

①太極を理解し、体現する。

②勁を正しく理解する。

③一定の功夫がある。

④聴勁ができる

ではないかと思う。

2020年11月2日月曜日

捨己従人に関する考察

王宗岳の太極拳論の中で「捨己従人」について元々は「捨己従人」なのに誤って近きを捨て、遠きを求めるとあります。これは捨己従人は近きを求める事だという風に解釈されます。小生の実感として捨己従人を達成するには3段階があるように思われます。

第一段階 己を捨てる段階です。具体的には自分の念(雑念)を捨て去る事で、これに徹する事により全体が良く見えるようになります。

第二段階 念が無くなり相手と一体となる感覚が生じてきます。相手に従う事が自然とできるようになります。

第三段階 自分の気が相手をも覆うような感覚です。相手の気が動いた場合でも自分の気が動くかのような感覚で察知できるようになります。


2020年10月2日金曜日

楷書の混元太極拳2

楷書の混元太極拳を打ち出してから何が楷書なのかという質問を受けましたので、この場にてお応えしたいと思います。
そもそも馮志強老師の套路は暗勁を用いる事が多く、普段は勁がはっきり見えないきらいがあります。勿論、表演等では明勁を出して套路を打たれる事もありますが普段はあまり明勁で套路を打っておられなかったようです。それを外形だけ真似ても中味が無い、勁が出ない套路となりがちです。現地に住んでおらず、日本から通いの生徒は往々にしてこの傾向に陥りがちです。小生の場合は偶々張禹飞老師からも御指導頂いていたので、同老師から度々勁が間違っている箇所については指摘され、修正されました。小生も一つ一つの勁を確認し、馮老師にも確認を取って套路を打って来ましたので各招式がどのような勁を出すのかに関しては多少知る処となりました。まずは明勁でしっかり套路を打ち、上級になるにつれ暗勁でも套路を打てば良いかと思います。その為に私の主催する会では勁の検証を各招式毎に度々行っており、勁が出て相手が飛ばない、もしくは動かない限りその招式の勁が出ておらず、招式ができていないと判定しています。
現在日本で混元太極拳を普及するにあたり、この正しい明勁を正しく伝える必要があり、その套路を楷書の太極拳と呼んでいるのです。
最近も張老師から中国における混元太極拳の表演動画を送って来られ、こんな勁が出ていない套路を打っているようでは墓場で馮老師が憤死されていると言われていました。
日本でも状況は似たようなものではないかと危惧するこの頃です。これらの事を背景に最近「楷書の混元太極拳」を提唱しているのです。正しい勁で打つ事が套路においては大事です。中国人は個性的な為、套路を色々と変えてはいますが、勁は同じである事が必要です。これが伝統太極拳の根本的な考え方です。その意味で楷書の太極拳が皆さんお練功の一助になれば幸いです。

2020年9月2日水曜日

気の反発に関する考察

最近教室ではお互いを好きになるように訓練して欲しいと生徒の皆さんに要望しています。又教室長は皆さんから好かれているかを問題にしています。これに関してはいくつかの話、経験が下地になっているのでここでその話をしたいと思います。
まず初めにある合気道か古武術の名人が教室の練習で生徒さんをころころと転がす動画があり、中々大したものだなあと感心してみていました。その方が他流との試合をする動画があり、見ているとワンパンチで倒されてしまったのです。でその動画を良くみていると件の名人は他流試合ではかなり構えており、気が前に出ているようにみえました。我々も教室では相手を気で動かす練習をしますが、気が出てしまってはワザは掛かりにくいものです。気に好悪はありませんが、気を司る意識には好悪があり、相手と一体になっていない場合は気が反発しあって中々力を用いないワザが掛かりません。相手を好きになっている場合は気も親和性が高く術理も掛かりやすいと感じられます。
2番目に最近読んだ合気道の内田樹先生の本で合気道は「愛と和合の武道」というが、初心者はこの「愛と和合」を漠然とした精神的、道徳的な目標のようなものだと思っているかも知れない。だがこれはきわめて精緻に構成された技術の体系であるとの一節があり、全く太極拳も同じだと思った次第です。それは気を扱う武術では当然の事ながら相手との一体の愛が必要となってくるのです。その時ワザが一番掛かりやすい状態と言えます。気が相手をも覆い全く反発していない状態です。王宗岳の打手歌の「粘連黏隨不丟頂(ザン、リエンニエンスイブデューディン)」粘りつくように相手に従い、離れる事もぶつかる事も無い不丟不頂(ブデューブディン)の状態を作り出すには精神的に相手と敵対してはうまくいかないというのが私の実感です。だからこそ誰が来ても好きになって下さいと言っているのですが。ここの処は中々理解して貰えないかもしれません。
3番目に陳発科老師の晩年に顧留馨先生が陳発科老師に推手をお願いしたところ手が触れるや発科老師から離れなかったとの逸話がありますが、これも気の一体化によってなされているものと思われます。
太極拳では太極を知るには無極になりなさいとの教えがありますが、無極になれば相手との一体による親和性が出てくるので(この状態を相手への愛とも言える)術が掛かりやすくなるし、相手の動きも見え易くなるという道理です。ここの処を私は精神の技術論と言っていますが、ある意味一番大事な部分とも言えると思います。
特に、損得、利害にさとく損得、利害で行動する人には注意して貰いたいポイントです。
損得、利害と相手への愛とは相いれないものなので、この太極拳の修行に入った段階で強く意識して自分を変えていく必要があると考えています。ただこれは単なる精神論と捉えられやすく素直に聞き入れて貰えないのが現状です。
  

2020年8月1日土曜日

北京陳式の共通点と方向性

皆さんには北京陳式とは耳慣れない言葉と思いますが、そこから御説明しましょう。北京陳式とは陳式太極拳の嫡流でその名を広めた陳発科老師の拝師弟子、孫弟子等が演じる太極拳の事です。従い、陳氏宗家を引き継いだ太極拳と言っても良いと思います。陳氏宗家の太極拳は北京をメッカとして広まっていきました。北京陳式で練習する套路は新架式と呼ぶ人も出てきており套路は全国的に広まった感があります。然し乍ら套路が北京陳式の全てではなく、北京陳式全体は拝師の弟子が継承していっています。というのも陳発科老師は陳式太極拳を陳一族に閉じ込めるのではなく、陳姓以外にも開放したからです。ですが誰でも良い訳ではなく当然陳発科老師のお眼鏡にかなう人物が引き継いでいく事になりました。陳式太極拳には陳発科老師の出身地では地域で伝承される太極拳がありますが、北京陳式はそれとは多少趣を異にしている印象があります。尚、小生が属する混元太極拳も北京陳式に属します。北京陳式では毎年北京で大会が開かれていました。私が北京にいた時は年2回、大会がありました。当時の北京陳式の会長は馮志強老師でしたが、現在は陳照圭老師の弟子で後に馮志強老師の弟子になった謝志根老師です。
北京陳式の老師方の共通点としては現役時代は太極拳を職業にする事が無く、皆さん自分の職業をお持ちで、引退後に太極拳を本格的に教える方が殆どです。従い、太極拳を商業ベースに乗せる必要も無く、昔ながらの教え方で付いてくる人のみを教えるといった具合でした。当然の帰結として対外的な宣伝は無く、あまり一般の人々に知られる事はありませんでした。
小生が考える北京陳式の方向性は気の流れを重視するという事ではないかと考えています。例えば斗勁(とうけい)ですが、北京陳式にはあまり斗勁を用いる人はいません。小生は陳発科老師が斗勁を陳式太極拳と思う人がいるが、それは陳式太極拳では無いと否定されたという話を馮志強老師より伺いましたが、要は気の流れという意味では流れをスムーズにする方向とは逆なので否定されたのではと推測しています。又金剛捣碓も気の流れを考えて2度変更したと聞いています。套路は要は身体の開発を目的としているので、単に招式(ワザ)を組み合わせたというより、その繋ぎの動作も含め気の流れを重視し身体を開発していくように組み立てられ、最終的には混元太極拳の原型に辿り着いたと考えるのが小生の結論です。
これらの結果として北京陳式は陳発科老師の出身地で地域で伝承される太極拳と趣を異にしてきたのではないかと思います。どちらが良いとか悪いとかの話では無く、風格が違ってきているという事だと思います。禅でも達磨大使から伝承されてきましたが、臨済禅と曹洞禅で風格が異なるのと同じです。

2020年7月1日水曜日

太極拳論注釈3-3




太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟勁、由勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、

學者不可不祥辧焉!是為論。


耄耋御众之形,快何能
観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。
この文は同上の文の意味で、年齢の形から言ったのです。「四両撥千斤」は力の功績でもないし、年齢の優位性からくるものでもない。だからなぜ「観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。」となるのでしょうか?「老人」は78歳か80歳の年齢です。70歳か80歳の年齢の老人がは若者と技や動勁の腕比べができるだけでなく、しかも勝算があるというのです。何に依拠していますか?「速い」は高齢の老人には明らかに不可能で、高齢者の行動が遅いのは自然の法則です。若者を負かすことができるなら、巧みなところが必ずあります。それは柔らかい力で剛の力を無力化することで「我順人背(私は滑らかで主体的勢いがあり、相手は滑らかでなく受動的である)」の状態にたり、それから「四両撥千斤」の技術で相手の勢いを利用して発勁します。
年齢や速度の限界を超えて、太極拳の功夫のある老人は、巧妙なゆっくりな勁で若い壮漢の拙力の速さに打ち勝つことができます。慢を以って快に克ち、柔を以って剛に克ち、静を以って動を制し、不変を以って万変に対応します。これが太極を練る法であり、又太極を用いる結果でもあります。慢練(ゆっくりの練習)と、快練(速い動きでの練習)、それぞれ効果があります。太極拳は力とスピードが要らないのではなく、
ただ、その力は全身一家(全身の動きが協調している)、意気が一致して、開合があります。そのスピードは心が静かな中にあり、触覚が鋭敏で、物や動き順応して、感応して動き、機を得て勢いを得るというものです。
学者不可不辨焉!是为论
学ぶ者、詳しく弁別しなければならないのである。以上を以って論と為す。
この文は「太極拳論」の結論です。学者は太極拳を学ぶ者であり、「詳しい弁別」の要求は低くないです。一字一字で理解し、分析します。一言一句の実践体得、一招一式の対比解析、一年一日慎重に考え慎重に自問し、絶え間なく粗を取り去り、精髄を取る、偽物を除去し本物を残す、微に入り細に入り誤りを正してこそ、真の太極拳を受け継ぐことができます。
以上、全編拳論を機能と役割によって並べ直して読み直しました。皆さんが読めば新しい悟りが得られると信じています。煉瓦を投げて玉を引く23)のは,幸甚のためです!【終わりに】
王宗岳の「太極拳論」の解析はこれで全部終わりました。
最後に拳友たちに少し話があります。
第一に、「太極拳論」は理論であり、全編を通して話しているのは太極の理です。しかし、太極拳の理は徹底したものではありません。いくつかのレベルを分けることができます。今拳を習っている人は階層的に理解しません。太極拳の「理」を述べ、最後にいろいろな「理」が混ざり合い、何を言っているのか分かりません。お互いに批判したり、相手が間違っていると非難したりする人もいます。太極拳の「理」は「太極」の道理に関わることが避けられないので、形の上での話と形の下の話が混在しています。加えていくつか道家は道教の練丹の“理”を加えている為、拳法を習っている人はどうやって練習すれば良いか分かりません。実際太極拳の「理」を「論」理、「法」理、「術」理、「技」理に分けさえすれば、私たちは簡単に拳法の中で真贋の太極拳を応用し、識別できます。
第二に拳法を練習するには必ず理論を勉強しなければならない。なぜなら、「練拳は須らく理を明らかにすべし、理が明らかになれば理を通して拳法が精妙になる。」ため、「理論は行動の指針である」からです。しかし、武のことわざには「明理不明法は、すべて空論である。(理論が明らかで、その実行方法が明らかでないのは全て空論です。)」。つまり、理を理解すれば太極拳をマスターできますか?答えは否です。あなたが勉強したのは全部「空論」ですから、操作性(法)がありません。操作性は「法」から「理」に尋ねます。もう一つ更に重要な言葉があります。法が明らかでも要訣が明らかでなければあくまでも道は得られません。「ここの」要訣は広義に見ることができます。人のツボだけではなく、可視で具体的な「技術部位」と見られます。この「要訣」こそが最も具体的で、最も「操作性」のあるものです。ですから、「要訣」の点を明らかにするには「明師」の導きが必要です。これが肝心なところです。ですから、別の角度から言えば、「太極拳論」を理解したからと言ってあなたが太極拳を修めているとは言えません。反対に、「太極拳論」を理解しないと必ず合格の太極伝承者にはならないです。「太極拳論」に対する理解は太極拳を上手にするために必要な条件ですが、十分条件ではありません。
第三に、功夫は相対的で、決して絶対的ではなく、太極拳の功夫も同じです。
しかも「太極功夫」は錬成し難く、又重要な事は制約要素が多すぎる事と条件の制限も多すぎる事です。そして更に問題は後天の習慣や慣れ親しんだ考え方と個人の損得心を克服することが肝心です。これは技芸が高い低いではなく、精神修練の問題です。だから太極拳は競技試合、自身の芸を自慢する表演、さらに商業化を提唱するべきではありません。心性修練から益々遠ざかる結果になります。また、太极拳には長寿、美容、ダイエット、幸福づくりなど、多くの後光と責任を付加するべきではありません。それは民族体育の健身運動の一項目で十分です。あなたの趣味、愛好で某太極拳を選んで練習したら0 Kです。太極拳はこれだけです。興味のある研究者は、文化機能を追加して研究してもいいです。ただし、過度にレンダリングしないでください。このように太極拳は本来の姿を持っていますが、どうしてそれで楽しくないですか?(終わり)

注)

20) 「老子」四十二章
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず
万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す
人の悪む所は、唯、孤・寡・不穀、而して王公は以って称と為す
故に物或いは之を損して益し、或いは之を益して損す
人の教えるところ、我また之を教える
強梁なる者はその死を得ず、吾将に以って教父と為さんとす

<解釈>
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。
万物は陰を背に負い陽を胸に抱いて、その中間のゆらぎをもって和を為す。
人のにくむところのものは、ただ、孤(みなしご)、寡(徳少ない者)、
不穀(不善、役立たず)である。しかるに、侯王は、それを自称する。
その故は、世の諸々の物事は、損は益に、益は損に、と転化の作用を持つ
からである。世の人の教えるところのもの、これを私もまた教える。
「強く剛直なものは、安らかな死を得られない。」私はこれを教えの父としたいと思う。先ず、「道」があり、ここから「一」が生じる。ここに説かれている事から、「道」は「空=ゼロ」と同義として良いだろう(「道」が「一」なのではない)。
そして、「一」から「ニ」つの相対立するもの、相補的なものが生じ、そこに「ニ」つのうちのどちらでもない第「三」の沖気(これは白と黒を「二」の対立物、或いは、相補物とすれば、その間に存在する微妙な色相のグレーゾーンに相当すると考えれば分かり易いだろうか)が生じるに至って、そこに様々な万物(先の例に例えれば「色相」)が生じてくる。そして、この「ニ」においては、白と黒というように、明確に対立(相補)するものとなるが、その「三」、中間のグレーゾーンは、ある時は黒に近い色相ともなれれば、又ある時には、白に近い色相ともなり得る、この「三」の持つ微妙なバランスが、白と黒の対立を薄め、その対立を和へと導く用(はたらき)をするのである。

21) 師承:弟子が師から受け継いだもの。師伝。

22) 斤(きん)は、尺貫法の質量の単位で500グラムある。伝統的には

23) 抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)                                  兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。                             読み下し「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」であり、日本の諺の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうように仕向けることを言う。




【中国語】
耄耋御众之形,快何能
此句同上句之,是从年的。"四两千斤"既不是力量的功,也不是年优势,"耄耋御众之形,快何能""耄耋"是七八十的年,七八十不但能与小伙子动劲,而且券在握,依靠什么?""于耄耋老人然不可能,老年人行动迟缓是自然,但能击败人就定有其高妙之,那就是能以柔走化成"人背",然后以"四两干斤"技巧借势发,就可以超越年、速度界限,有太极功夫的老人以巧之慢足可战胜年青壮的拙力之快.以慢克快、以柔克、以静制、以不变应,既是太极之法、又是用太极之果。慢,各有妙用。太极拳并非不要力与速度,只是其力在于周身一家、意气一致、开合有法。其速度在于心静神定、触灵敏、物来顺应感而、得机得耳。

学者不可不辨焉!是为论
本句是«太极拳»结论。学者即学太极拳者,""要求不低,就是要一字一字地理解剖析,一句一句地践体会,一招一式地照解析,一年一日地审问慎思,不断地去粗取精、去存真、由入微、错误,才能承出真正的太极拳。以上把整篇拳按其功能和作用重新排列后予以重新解,相信大家后会有新的体悟,拳有所裨益,引玉,幸甚!

结语
王宗岳的«太极拳»解析至此全部束了,最后有几句拳友们说
第一太极拳»是理,全篇的都是太极之理,但太极拳之理不是一通到底的,是可以分出几个面来的。在学拳的人不分面地去理解、述太极拳之"",最后果是各种""和在一起,不知所云,甚至有人互相攻、指责对为错。因太极拳之""不可避免要扯到"太极"之理,形上与形下在一起,再加上些道家.道教丹之"",使得学拳人不知道怎么拳了。其只要把太极拳之""分开""理、""理、""理、"",就很容易在拳中用和别真假太极拳了。
第二,拳一定要学理,"明理,理通拳法精","是行的指南"。但是武谚还
一句"明理不明法,都是空头话"就是,知道了""就能学好太极拳了?答案是否定的!你学到的都是"头话",不具可操作性,可操作性要从""理去有一句更重要:"明法不明,究不得道。"""可以广地看,指人身,视为具体之"部位"""才是最具体的,最具"可操作性"的。所以""的点明必要有""引路,才是关。所以,从另一面,理解了«太极拳»并不能你就能好了太极拳;反之,不理解«太极拳»肯定不能成一名合格的太极承者,«太极拳»的理解是好太极拳的一个必要条件但非充分条件。
第三,"功夫"是相対的而非绝对,太极功夫也一。而且"太极功夫"难练,在于它的制因素太多,条件限制也太多,而且关是它要克服后天习惯性思以及个人得失心,不是技髙低问题,而是心性修炼问题。故太极拳不宜提倡技比、表演炫技,甚至商,它会离心性修愈来愈。另外,也不宜太极拳附加很多光,寿、美容、减肥、造福等,它就是一民族体育健身运就够了,以你自己的兴趣好去选择某式太极拳去练习0K,太极拳此而已。有兴趣研究者,再附加一些文化功能研究也未不可,但勿度渲染。这样还太极拳以本来面目,而不呢?()