2018年1月2日火曜日

太極拳の不思議

武術以外の目的で太極拳をやるのは健康が主な目的でもあったりするが、 通常武術を嗜んでいる人が太極拳をやろうというのは強くなる為であると思う。 私の教室にも多くの武術愛好家が強くなる為に太極拳を習いに来ています。私も強くなる為に太極拳を始めました。ただ、太極拳をやっていくと多くの人が勝つか、負けるかはどうでも良くなってくるのも事実です。私も以前程、組手や勝負に対する拘りがなくなってきました。これはどういう事かと言えば太極拳の本質に根差した問題と考えています。太極拳は無極、太極、陰陽、無極と移りゆく一つの世界観で、陰陽のバランス、調和を基本としています。これが身についてくると調和が身についてきます。一方的に倒すとかではなく、調和の中で身を守れれば良いかっという考えになってきます。ガツガツ勝つ事もないかとなってくるのです。又、この無極が曲者で無極を体現する為には無になるわけですが、全ての念を落としてしまうので、そこには相手に勝とうとかの意識も無くなってしまうのです。無極になって初めて相手が自分、自分が相手という感覚になってきて、相手の事が自分の事のように把握せられるのです。そうなった場合、相手、自分というのは自分の我見である事が分かってきます。海の波をそれぞれ独立したものと認識しているのと同じ事です。全ては一体のものなのです。ここが実感として分かってくると、そこには相手を倒そうとかの気持ちも無くなってくるのです。然し、逆に相手の動きは良く見えるようにもなるのですが。
このように太極拳を追及する過程で、太極の思想が自分の中に入り込んで、自分の血肉となってきたら人を倒す事はどうでも良くなってくるのです。そして太極を追及するようになってくるのです。馮老師は「太極拳はいささか了解しているが、太極は終わりの無い道である。太極拳を修行している人は全て同道の士である。」と言われていました。最近はその意味が身に染みてきているこの頃です。ひょっとして太極拳を創った人はそれが目的だったのでは無いかと勘ぐっています。要は血の気の多い武術家に太極拳を道具として与え、その道具を利用して太極の道に引きずり込もうとしているのではないかと。私だけでなく、うちの教室に来ている武術の高段者は自然とこの拳を修めているとそうなっていってるのですから、この推測もあながち間違っていないのではと思います。即ち、太極が目的、太極拳は手段の一つという訳です。しかし、それが分かった時はもう後戻りのできない処に来ているのです。自然と太極を追及する自分がいるのに茫然としてしまうばかりです。これが太極拳の不思議だと最近つくづく思います。

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