筆者/張禹飛
王宗岳の「太極拳論」は、最も早い太極拳の古典理論であり、文章が簡潔で意を尽くしており、又蘊蓄は無尽です。
この記事は、太極拳の神秘と真諦を探求するために、数十年にわたる個人的な修練と実践研究に基づいて、拳理と技芸の観点から始めることを意図しています。過去の何人かの太極拳論に関する注釈を見たが、一般には逐次解説となっておりその真意を言い尽くしているとは言い難いと常々感じています。
個人的な修練と結合させ、テキスト全体から、同じように識別された文を分類および分析し、より正確にその精髄を全面的に把握し、太極拳の真諦を探ります。
未熟な自分の意見をまず述べて他人の価値ある意見を引き出すという心で、後学を待つつもりです。
王宗岳の「太極拳論」を概観すると、全体では、拳理総論、独立した拳の法、二人の推手及び組手(散手)等幾つかの理論と実践経験、複数の角度と複数の方向から太極拳の技芸と技術思想を解明し、言語的な叙述と技術的な解釈のために、テキストが互いに点在し、互いに説明し合います。叙述には適していますが、技術と叙述が相互に挿入しあっているために全体の状況を把握することは困難です。技術的ロジックの観点から発し、4つの側面から分析し、その理論の精髄と論理的脈絡を把握し、我々の練拳の実践を指導します。太極拳は一体どのように練習しどのように用いるのでしょうか?
この記事は、テキストの4つの側面から再編され解説しています。:
1、拳理の大綱
2、一人で拳を練習する方法
3、二人で行う推手
4、二人で行う組手(散手)。
1.拳理の大綱
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。
動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
~本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。
~元々は「己を捨て人に従う」を、多くは誤りて近きを捨て遠きを求める。所謂差はほんの毫(わずか)であるが、謬り(あやまり)は千里のように大きくなる。
これらの文は全編引用です。(太極の理を以て太極拳理を引き出しています。)
又全編の大綱であり、要点をかいつまむ役割を果たす一部分でもあります。此の段の内容は基本的に宋の周敦熙1)の太極図説2)の言語と思想を継承しています。
太極図説曰く: “无极而太极。太极动而生阳。动极而静,静而生阴。静极复动。一动一静,互为其根。分阳分阴,两仪立焉。
(無極にして太極(混沌たる根元)。太極が動いて陽(分化発動する働き)を生ず。動が極まって静なり。静にして陰(統一含蓄する働き)を生ず。静が極まってまた動。一動一静、互いに其の根と為って、分かれて陰、分かれて陽、両儀立つ。)
二者を比較するとどのように似ていますか。以下各句の分析です。
☯各句の分析
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。
太極は無極から生じるもので、動静の機、陰陽の母である。
この4句は言わずもがなです。言及しているのは太極の理であって、太極拳の理ではありません。多くの人がその解釈を太極拳の理としているのは望文生義3)です。
太極の理は形而上の理であり、太極拳の理は形而下の理です(ここではテキストについて語っているので理の層は関係がありません)
二者は同一レベルの概念ではありません。
無極と太極の関係については歴史上事例があります。つまり南宋大儒の朱熹と心学の大家陸九淵4)は鵞鳥湖の弁明の後、「無極太極」の議論は結局陸氏が優位に立って終わりました。
今日の本文は紙幅及び主題が限られている事もあり、「無極太極」という議論も求められず、その論題だけを棚上げします。
「太極」という言葉は中国伝統文化の極めて重要な一つの哲学概念です。長い期間の社会生活の実践過程で歴史に従って発展しており、人々の一種の内面的化された集団無意識を以て人々の知恵のモードと意識形態及び、社会生活のあらゆる面に影響を与えており、次第に民族の考え方、生活信念と生活様式になってきました。これは中国伝統武術の文化背景です。
王宗岳の冒頭の理論については、内外の二つの意味を包含し、その外の意味は太極の「源」と「流」の関係であり、つまり「源」は「無極」であり、「流」は「陰陽」である。その中で「源流」を動かすのは「動静の機」です。日常生活の中で最も直接的に「陰陽」の概念を反映する自然現象は随所に見られる「動静」現象であるので、ここでは直観現象「動静」を、「太極」の初期点として説明し、抽象的な陰陽概念を具象としての「動静」概念に転換します。周敦顧とは異曲同工法5)で、特別な道連れとなる妙があります。周氏は「動静」を陰陽の切り口と理解しており、王宗岳は基本的に周氏の原意をそのまま引用しています。ただ周氏より「機」という概念が多くなっただけで、これも太極の理から太極拳の理に向かって行く伏線を敷いています。これも王宗岳の素晴らしいところです。「機」は、機枢、機関、時機のことです。この「機」は外形のたとえではなく、「炁」を指す或いは「気機」と呼ぶものです。その内の意味は「陰陽変易」という意味を含み、つまり「無極が動けば太極が生まれ、太極が動けば陰陽が生まれる」という周流変動です。この変動の鍵は、やはり「動静の機」です。この四つの言葉は形の上の言葉、冒頭の言葉として、全編を統括する大綱です。
前に述べたように、「動静の機」の機は外形ではなく、「炁」の意味で、或いはこれを「気機」と呼んでいます。
世の中には毎秒存在するそれぞれ自身の独自な「気場」があります。
一旦周囲の気場と相互作用すると、バランスが悪くなる事があります。この場合バランスを取り戻すために、気の「機」の変化が中枢となります。
これが太極拳がなぜ「炁_」(当然「意」を練る事により達成される)を練るのかという理由です。このテキストの「動静の機」は太極拳を言っているわけではないですが、「機」の導入には既に太極拳を呼び出す勢いがあります。
冒頭の布石が終わり、後は直接的に議論の本題に入ります。
動之則分、静之則合。
動けば則ち分かれ、静まれば則ち合する。
この動静とは太極にもあり、太極拳にもあります。「分、合」の二文字について言うと、「太極の理」を指しています。もし、太極の理を「開合」に変えると太極拳のことです。前述の「動静の機」はここで発生します。すなわち動静は心にあります。
「心気」が動くと分合は意気に随い、心意が動くと意気が四肢が分布し、太極十三勢6)を成す。
静の本質は無極であり、心と神7)が合一しており、何も無い空洞で混沌としている。無いようで有り、有るようで無い。かすかな霊光が性宮にぶつかり、ほこりが落ち無極から混元が生じ、混元から太極が生じます。この時の動静は後天(後に獲得したもの)のものですから、技撃の意識と融合させる事ができ、太極拳に成ります。
ここで注意したいのは「分合」と「開合」の関係です。「分合」は主に「太極の理」を言いますが、「開合」は「太極拳理」を言いますが、その中には外形と気機の二つが含まれています。実践は後者は人体の健康と功夫の次序で更に重要である事を証明しています。
無過不及、随曲就伸。
相手が屈すれば自分がそれについて伸びていき、相手が伸びれば自分もそれにくみして屈し、過ぎることも不足することもないようにする。
次の文に続いて、この文は直接に拳法と推手の理を言います。前文にも「太極の理」がありますが、後者は純粋に「太极拳理」です。この句は4つの主要な概念があります。過、不及、曲、伸。
「過」は上回る、超えるを意味します。「不及」は間に合わない、到達していないということです。「曲」とは体の曲げや曲線の動き、「伸」は手足を体の外に出したり伸ばしたりする運動のことです。
「過」も「不及」も病気です。練拳であろうと推手技撃であろうと「過」はすなわち「強弩の末8)」(強いものも衰えては何もできない)である。
「不及」は成し遂げることが難しい。
「随曲就伸」は一般には推手に最適です。「随」は必ず二人の関係を指すので、拳法の中では必ずしも「随」とはならない、特に散手(組手)の中では「随」はスピードのために非常に実現は難しいです。一方推手は速度が緩慢で体の接触もあるので、比較的簡単に実現できます。
「随曲就伸」。簡単に言えば、練拳でも、推手でも散手でもが、「動静の機」が発生したら、外形は動静に関係なく,すべて「外は中正而して内は中和」の状態を維持しなければならない。勢いが度を超すならば、気は息が出尽くした感があり、これを「過」と成す。もし勢いが不十分であるならば、即ち戻ってくる。気が出にくい感があるなら「不及」となり、推手も亦然りです。
「過ぎる事もなく、及ばない事も無い無過不及を達成するには「くっついて離れず(粘连黏随不丢顶)」という状態を保持し、太極拳の技撃の道にぴったり適う事が必要です。この時どんな状態にいても、彼の力に合わせ、又勢いに便乗して、相手が屈するに従って伸び、過ぎる事も及ばぬ事もない状態にすれば彼の力も私のために使うことができます。この句は特に推手を指しています。二人は互いにくっついており、相手の勁を聴き、自分の「守中用中」(守中とは、自分の中線を相手に取られたり、コントロールされたりしないようにすることです。用中は自分の中定勁(中線上の勁)で相手の各種の力を攻撃したり、無力化することです。)を保持する為、必ず、相手に随い、自分が伸びやかで相手は窮屈な「我順人背」を保持する必要がある。従い、私にとって、「不及」と「過」はともにかかりやすいと思う。双方にとって身体が接触している空間は固定しているので粘连黏随不丢顶を保持するには以下が必須です。即ち「あなたの勁が直線で私に攻めてきたら曲を持って応じ、あなたが曲がって戻るなら、私はまっすぐに随う事です。」
因みに、練拳、身法、歩法、手法、全て「過」であってはならない、又は「不到位」(到位は然るべき位置、場所に決まる)であってはならない。
美観を追求するために歩法、身法が大きくなり過ぎると、運動転換の時(方向が変わる時)に筋肉が緊張してしまいます。発力(発勁)効果を追求するために、むやみにジャンプして足を踏み鳴らすことがあります。怠惰で散漫、練習しているようで練習していない、気が散る、心を外に向ける等すべて「過」ではない、つまり「不及」です。
左手の伸と右手の曲、上肢の伸と下肢の曲なども同様の例です。(粘连黏随は別途解説します)。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。
元々は「己を捨て人に従う」を、多くは誤りて近きを捨て遠きを求める。
この言葉は大綱から見れば太極拳の宗旨即ち「自分を捨てて人に従う」ということです。しかし、多くの人は後天の思考や習慣が原因で実践の中で「捨近求遠」に変わってきました。太極拳の技術要求は「粘连黏随(相手に付き従い)」「私順人背(自分が滑らかで相手が滑らかでない)」及び「四两拨千斤(四両の僅かな力で千斤[500kg]を動かす」の効果です。従い「捨己従人(自分を捨てて相手に従う)」あってこそこれらの効果を得る事ができるので「本々は捨己従人」です。「多くの人は誤りて近くを捨てて、遠くを求める。」は「自分を捨てて人に従う」という語の反対語で、道理に合ったものを捨てて、「道」から益々遠くなる「末技」を求めるという意味です。ここの「近」は近道という意味です。機に乗じてうまい汁を吸うという意味です。ここの「遠」とは、「太極の理」から遠く離れた安直な成功の実現を目的とする「末技」のことです。
例えば、ここ数年、推手の試合で見かける不意打ちを食らわせたり、人をつまずかせて転ばせたりするという現象は、すべて「捨近求遠」にあります。ここの「遠」は得点です即ち利益を得るという事です。「近」は即ち「自己を捨てて相手に従う事」です。このような利益のために太極勁を身につける技術を捨てるというやり方では永遠に太極拳の真諦を習得する事ができません。又「本能」の誘惑と「本能」が自分を利用する事を避ける事ができません。従い、永遠に「太極勁」を身につけることできないので、これによって太極拳とは無縁となります。この他にまた、この言葉は別のメッセージも漏らしています。王宗岳の時代に太極拳を理解し、習得した人は極めて僅かです。従い王宗岳は「多くは誤まって近くを捨て遠くを求める」という感慨を持ちました。斯かる理由から彼、王宗岳は頑張ってこの「太極拳論」を書きました。他人の聞き間違えや読み間違いを正し、現在の正確な理論と実践を以って、後から来た人が見たり、耳にした誤った理論と実践を正します。
所謂「差之毫釐、謬之千里」
所謂差はほんの毫(わずか)であるが、謬り(あやまり)は千里のように大きくなる。
この句は先の2つの句を受けて、「捨近求遠」の功利心で「捨己従人(自分を捨てて人に従う)」の真の太極拳の功夫に取って代わることを指します。
「厘毛(わずか)の差」は目の前で展開している技比べを述べるものです。
つまり「本能で、功利を求め」而して「太極の功夫を捨てる」事になります。
その差はほんの僅かなので厘毛と言う訳です。実際、理の上から言えば此のちょっとの事が結果として「大道」から逸脱してしまった訳です。従い「誤りが千里」という大きな差となるのです。もちろんこの言葉の裏にはもう一つの意味があります。
あなたが太極拳を習うのは技芸以外にやはり最終的には太極大道まで修行しますが、
このような試合の細かい計算は参加者個人の心理状態を大道を修練するように調整するのが難しいです。
押せば押すほど計算が高くなり、練習すればするほど道が逸れてしまいます。従い、「捨己従人」から離れ、太極拳の正道ではなくなるので、「近くでは差が僅かです」が結果として「遠きでは誤りが千里にも大きくなる」事になります。
(次号に続く)
注)
1) 周敦熙
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%95%A6%E9%A0%A4
2) 太極図説https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5%E5%9B%B3%E8%AA%AC
3)
望文生義
文字の字面を見ただけで意味を深く考えずに、前後の文章から予想して語句の
意味を勝手に解釈すること。
4)
陸九淵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%B1%A1%E5%B1%B1
5)
異曲同工:外見は違っているようだが、内容は同じであること。
6) 太極十三勢 太極拳は太極陰陽学説が武術、気功と結合した内家拳術で、別名「太極十三勢」と言い、棚,履,挤,按,采,列,肘,靠,进,退,顾,盼,定と言う十三の文字からなっているのです。前の八字は八種類の手法で、後ろの五字は五種類の歩法です。その十三種類の手法と歩法は太極拳運動の全プロセスを貫いています。
太極十三勢は太極陰陽学説の易変の理、運動の理、体用の理と養生の理を表し、拳術運動変化の時空特徴を反映し、そしてそれぞれ人体の臓腑、経絡、ツボと対応しています。太極十三勢は十三種類の姿勢ではなくて、十三種類の方法であり、即ち十三種類の練気法、技撃法です。太極拳は動静相兼の内功拳です。太極拳を練習するには丹田の功を頼りにしなければならず、丹田の気で肢体の運動を発動しなければなりません。だからまず内功を練習した上で太極拳を練習しなければなりません。先天の気をちゃんと練習しないで、ただ体力と後天の気を頼りにして太極拳を練習するなら、太極拳を高い次元で把握できるはずはありません。
十三勢を練習する時の全体的な要求は次のとおりです。
思想入静を根本とし、眼神心意を統帥とし、丹田の気をエネルギーとし、身法中正を本体とし、所属するツボを出発点とし、体全体の纏まった運動を目的とします。
八門手法と五行歩法に基づいてそれぞれ意念で気を導き、ツボに従って気をめぐらし、意気合一して肢体を運動させて練気、練拳、病気を除き、健康を保つ目的に達します。
7)
心と神
太極拳は、その経験を通じて根本的な生き方が変化します。この変化は、導引法という古代からのタオの修行によって伝承されています。導引法は、人間の心を、人間以前の自然としての生命心のある境地へ連れ戻すことにあります。それは、脳自体の能力を万物の能力に回復させることであり、その生命心の状態を「神=しん」と呼びます。そのような機能と構造をもつ脳は生理である「精=せい」の一部です。その生命心である「神」が万物に存在するエネルギーを使用して「精」を動かします。その時に生まれるエネルギーの動作を「気」と呼びます。「神」が「気」によって「精」を生かせるのです。
8)
【強弩の末魯縞に入る能わず】きょうどのすえろこうにいるあたわず
〔漢書 韓安国伝〕
強い弩(いしゆみ)で射た矢も、遠い先では勢いが弱まり、魯国に産する薄絹をつらぬくことさえできない、意。英雄も衰えては、何事もなし得ないたとえ。強弩の末
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