2、単独練拳法:(紙幅を節約する為推手の技術も兼ねます。)
この部分は専門的に単練拳法と連結できる文を探して述べています。
(ある文言は練拳と推手の両方に関連しており、これらを一緒に収めました。)
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。
由着熟而漸悟懂劲,由懂劲而阶及神明。然非用力之久不能豁然贯通焉。虚领顶劲,气沉丹田,不偏不倚,忽隐忽现。
習熟すれば次第に勁を悟り、勁をさとってから技芸が一段と神明の境地に及ぶのである。但し、これは力を用いない事が久しくなければ、豁然として貫通する事はできない。頭の勁は虚で上方に引率し、気を丹田に沈め、偏せず片寄らず保てば、勁は忽ち隠れ忽ち現る。
この段落の話はとても長くて、しかも間には次の文言が挿入されている。即ち「相手が剛で自分が柔の状態を【走】という。又自分が順(なめらか)で相手が引っ掛かりがある状態を【黏nian】という。 動き急なれば、則ち応ずること急にして、動き緩なれば、則ち緩に随う。変化万端ありと雖も、理は一貫している。」の推手、対練の言語記述です。(現在は後の「散手」部分を削除して解析します。)
この段落は多くの人がそれをいくつかの意味に分けていますが、実はそれは大綱の総括と大綱の分析の二つの意味しかありません。大綱の意味は【太極拳は捨己従人の拳である】という事です。それではどのようにして【捨己従人】に到達するのか?王宗岳は【捨己従人】に到達する道筋を示しています。それが以下の文言です。【由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明(習熟すれば次第に勁を悟り、勁をさとってから技芸が一段と神明の境地に及ぶのである。)】。ここの第一層では練功して【捨己従人】に至るには三つの段階、即ち着熟、懂勁、神明を経る必要がある事を直接説明しています。第二層ではこの三段階に対する解析と説明です。また、この段には2つの次元が含まれています。一つは一人での練功の次元で、もう一つは二人での推手技撃の次元です。以下は我々は単独の練功と推手の技撃の2次元からこの話を解析します。
由着熟而漸悟懂劲,由懂劲而阶及神明。
習熟すれば次第に勁を悟り、勁をさとってから技芸が一段と神明の境地に及ぶのである。
習熟すれば次第に勁を悟り、勁をさとってから技芸が一段と神明の境地に及ぶのである。この文は全編の肝心な点で、2重の意味を述べるものです。1つは個人の練拳における「着熟(習熟)」「董勁」「神明」、もう1つは推手技撃の「着熟(習熟)」「董勁」「神明」です。二重の意味は独自性もあれば、関連もあります。練拳の観点から言って、習熟しているということは、拳架の中の一招一式の拳理、勁路、ワザ、ワザの使い方がとてもはっきりしていて、はっきりと説明出来ます。又その道理と理論も説明出来、練った結果表現出来ます。「董勁」は太極十三勢の中の八門五歩9)に対して、各拳式と組み合わせて天衣無縫にできるということです。「妙手一運一太極10)」に達することができ、十三勢にぴったりと合致すます。「神明(神)」は拳法の変化が神出鬼没、予測できないことを指します。各式の拳法は十三勢の窠臼(かきゅう:古い臼)から飛び出すことができ、心機、気機を自在に動かします。一つ一つの招式はすべて「静かなる事山の如し、動く事脱兎の如し」という太極本象を現わしています。推手技撃から言えば、「着熟(習熟)」ということは相手の技の一つ一つに対して、手を指すように分かり、判然としています。相手の離れてしまう勁やぶつかる勁に対し自身の勁として無力化することは明鏡止水の如くよく分かります。「懂勁」は相手から来る勁の力を測ることができます。いつ機を得るか、何処で勢いを得るか、機勢の分量、得失の結果がはっきり分かります。「神明」は二人の技量比べの中で比較的に高級な精神活動に属します。説明しにくいですが、筆者の推測では、大体相手が動きだす心があれば、自分はすでに知っていて、相手は動きだす勢いがあれば、すでに化勁を始めていて、相手はすでに動きだした形があれば、こちらはすでに転んでいる、凡その効果はこのようなもので、内動の原因です。あまりよく分かりません。更に上級者の言を待ちましょう。言語で言う「神明」の段階は神妙離明であり、物の自然に応じて、詩のように「一字も無く、風流をきわめています。「神明」の段階は神妙で優れています。物事は自然で、一字もなく、風流を尽くしています。須らく注意しなければならないのは個人の練拳であれ推手技撃であれ「着熟」と「懂勁」と「神明」は、はっきりと区別するのではなく、互いに貫き、交差して影響するものです。
「着熟」は外技で、「懂勁」は内動です。すなわち「筋骨の力」と「内気の和」です。「神明」は虚霊意11)で、人間の潜在力の開発です。三つのものを貫通することができます。
“混元一体”ではなければなりません。
技術的に言えば、「着熟」とは自身が拳法に精通していることを指します。
(最低でも「外三合」の境地に達する事です。) 二番目は二人で練習する時、相手のワザを制するのに精通し習熟している事です(反応が敏捷です)。「懂勁」とは、第一に自分が練功している拳法の勁路(内勁と外力及び八法の勁力12)、三節勁13)等)の精確な把握と連結(最低でも「内三合」から「内外六合14)」の境界に達する事が必要)を指します。第二に、二人で練習する時に相手の勁路を把握し、判断することの精確な把握と意のままに化勁する事を指します。「神明」とは、第一に自分がやっている拳法に対する理解と運用が自然無為の境地であるということです。
(つまり自分で修行がすでに拳法の範囲から跳び出して、「明道、悟道、証道15)」のレベルに入って修行します。言葉ではなくはっきりと言えます。)
拳法の招式と招式の変化と転換は随意に行われ、入神し、拳法の技は渾然一体となり、全身が至る処拳になります。二は拳法の技量が確かに上乗に達しています。誰とでも試合をしたり、搭手で腕を合わせ試力をする時、相手が出てくる時、「力不足、対処に疲れる」という感じがしますが、この効果反応はどうかと言えば「私も玄又玄16)(究極の境地)を知らないです。」という感じです。(当時陳発科老師はこのような功夫だったという事です。馮志強老師は筆者に対して、あの時は老先生と手を組む人は胃の中にいつも何かがあり上にひっくり返る感じがすると言われていました。) 相手の精神状態、手の動き、歩法、心理活動に対して胸の内は豁然としています。相手のその技、勁力に対して自身の掌はハッキリと把握しています。双方の勝負に対して心は平然としています。
そして生命体の悟りと高下の争いは自然の状態にあります。(具体的な力法については、別文で検討します。ここで言う「着熟」、「懂勁」、「神明」三段階は全て太極拳の道理に合った技術を運用するもので、適当に解釈するものではありません。もし推手の中で摔跤(中国の相撲)、角力(レスリング)、擒拿(関節技)などの技術を使う人がおれば、これも「捨近求遠」です。
然非用力之久不能豁然贯通焉。
力を用いる事が久しくなければ、豁然として貫通する事はできない。
ここでいう「力」とは明らかに力を使うことではなく、功夫を練る(修行をする)、工夫を凝らすことです。この文は宋・朱熹の「四書集注・大学章句」に載っています。朱熹が言っています。格物、致知17)の意味を表す時、「いわゆる致知とは格物にあるもので、いわゆる知見は格物にある」。言は吾の知を致せと欲すれば、即ち物にありてその理を窮める。
人の心を覆う霊は知らないものはない。天下のものは理にかなっていないものはない。道理があり乏しくないので,その知識は尽きない。
大学で教鞭を始めた者は、必ず学者を天下のものにする。知られている道理のために益が無いからと言って、至极の极みに至るまで追求しないものはない。
力を用いる事久しく、而して一旦豁然としてそれを貫けば、衆物の表裏の精粗あれども至らない事はない。吾心の全体の大用(素晴らしい働き)は不明な事は無い。
この文は、格物が“物事の道理”に達して、しかも“その極”に達する時、ようやく“知”ができるということです。これは「長期の練功」であれば達成されるという事です。「長期の練功」の「後」に一旦豁然と貫通すれば衆物の表裏に精粗あれども至らざるところなく、わが心の全体の大用は不明では無い。
太極拳を学ぶ上でも同じです。
普通の人とは違った勉強及び苦練をしなければ太極拳の道理を徹底的に理解し、太極拳の真の功夫を得ることはできません。これは儒家の「格物窮理18)」のようです。
ここで特に注意したいのですが、「練功(用力)」は拳法を練習の上の事です。又、試力中に行われる事で、(注意:推手も試力です。また、筆者の実践修行に依れば、王薌斎先生が大成拳に「試力」という言葉を与えたのは非常に科学的ですが、一方「推手」という言葉はかえってかなり見劣りがします。「試力」という言葉をつければ科学的です。字面から見ると、「試力」の核心は「試」です。「推手」の核心は「推」で、二文字の高下はその端が見てとれます。ここは多く読み解きません。後で文章を書いてから解きます。)練功しながら悟るものであって、椅子に座って悟るものでもなく、又ベッドで寝て眠りながら悟るものでもありません。今はたくさんの太極拳をする人が居り、瞑想の中で道を悟り拳を悟ります。 実は、拳法は「格物」のように「実修」であり、椅子に座って悟るのは全て「空っぽ」の頭でっかちの理論で、実際から逸脱して、何の役にも立たないです。しかも「演繹推理」の落とし穴に陥りやすいので、頭でっかちな(眼が高くて手が低い)、議論が盛んですが、明らかではありません。
虚领顶劲,气沉丹田,不偏不倚。
頂の勁は虚で引率し、気を丹田に沈め、偏せず片寄らず保つ。
この三つの言葉は太極拳の一つの身法要求をまとめたものです。
練拳であれ推手であれ身法は「立身中正」を保持します。
つまり、神闕(へそ)のある水平面を境として、上部は百会穴(頭頂部)を意で上に導き、下部は気海のツボ(中丹田)から両足の湧水穴(気が沈む)に沈んでいき、これを以って上下となす。
その次に、前後左右にも偏りのある形があってはいけません。 これが「立身中正」で「八面支え」の太極拳の身法の作り方です。
拳を打つ時に「上領沈下19)」をしてこそ、背骨の節々が貫かれます。
身法の虚から虚霊に至り、頭頂の勁(力)で顔がまっすぐになり、
神は頂に貫かれる。
因みに丹田に気を沈める効果は3つあります。
一つは虚領の力と対をなし、拳勢の立身中正を保ちます。
二つは上虚下実の動体身法に達して重心を安定させることです。
三つは節節の貫き通す内勁を生むことです。
丹田の位置については、前哲の言い方が違っていて、へその中、関元、神闕、気海のいくつかの言い方があります。これは道家養生術とは違っています。
太極拳の練習から言えば、臍の下の小さい腹部を丹田と見なすのでさえすれば、こだわる必要はありません。「下守重心」の角度から見ると、丹田は点や面ではなく、腹の中の丸い空洞で、一つの「穴」です。
忽隐忽现。
勁は忽ち隠れ忽ち現る。
この文はどうして単独で言うのでしょうか?
拳法を練習する時も、気を動かす時も、勁を働かせる時も、有るようで無い、忽ち軽くなり、忽ち重くなる。虚実が定まらず、変化の多い状態の中で運行して、これによって拳の剛柔相済、緩みが適度になります。推手技撃をしている時に、相手に自分の力を判断しにくくさせようとして却って相手を見失い、対応に疲れたり、受け身を取る事が失われたりした時は、「忽隐忽现(見え隠れ)」をしなければなりません。隠は蔵(隠れる)、現は露(現れる)、忽ち隠れ、忽ち現れる。
これは相手が対応するのに疲れさせ、相手を見失ってしまいます。これは兵法の「兵は決して欺くことをいとわない」という計略です。同時に「忽隐忽现(見え隠れ)」はやはり勁を聴く時、相手の勁路を探る一つの有効な方法で、動きの中から相手に打撃を与える機会を見つけやすくなります。
注)
9) 八門五歩(はちもんごほ)
中国武術の伝統拳としての楊式太極拳の楊振鐸(永年楊氏四世)のもとに家 伝として残され、楊澄甫の作と伝わる理論書『太極拳老譜三十二解』のひとつ。別名に「十三勢」や「太極拳釋名」がある。
10)妙手一運一太極
一つひとつの動きがひとつの太極に達することができる。
11) 虚霊意: 虚の状態で柔軟で活発な様子
12)八法の勁力: 掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠
13) 三節勁
手は梢節、腰は中節、足は根節、これらをあわせて三節と言い、三勁を内
包する。
•梢勁(打撃点の力)
•腰勁(腰の力)
•根勁(足の踏み込みから生まれる力)
14) 内外六合
外三合:腕の、手首、肘、肩。脚の、足首、膝、股を自然な形で同調、融
合させる事。
内三合:心と意、意と気、気と力をうまく融合させること
15) 明道:真理を見つける。心理を明らかにする。
悟道:仏道の真理を悟ること。悟りを開いて道理を会得すること。
証道:仏道を修行し、身をもって、その真理を実証すること。
悟ること。または、悟りの真理に契った実践をいう
16) 玄又玄
道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名萬物之母。故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
道(みち)の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無きは天地の始め、名有るは万物の母。故に常に無欲にしてその妙を観、常に有欲にしてその徼を観る。この両者は同じきに出でて而も名を異にす。同じきをこれを玄と謂い、玄のまた玄は、衆妙の門なり。
老子はこの世の構成がどうなっているかをずっと説明しています。
この世の根源の最深部には「道」(タオ)が存在する。それをタオだと名付けられるようなものはタオではないという。その上に「名」が存在する。「名」がないもの「無」を宇宙、名があるもの「有」を万物にそれぞれ振り分けられた。が、有と無は同じ場所から派生しているのでこの現象を「玄」という。この「玄」を突き詰めていくと衆妙の門にたどり着く。衆とは全部、妙とは規則性とかコトワリのこと。つまり全ての規則性を生み出している「名」に到達すると言っている。
17) 格物致知(かくぶつ-ちち)
「格物」、物事を極限までつきつめること。「致知」は知識を極めること。
物事の道理や本質を深く追求し理解して、知識や学問を深め得ること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%BC%E7%89%A9%E8%87%B4%E7%9F%A5
18) 格物究理
(1) 物事を突き詰めて、道理や法則を追求する。
(2) 道理を極めて一貫する原理を見出す。
「格物」は物事の道理を突き詰める、「究理」は道理や法則を明らかにすると いう意味です。この二つを合わせて、上記のような意味となります。元々は、中国の科学技術の探求として生まれた言葉で、今では深く追求する全てに当て嵌まる言葉になっています。
19) 上領沈下: 頂勁を立て、気を下に沈めること
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