今回も太極拳論注釈(2)の3を下記アップします。
もう暫くお付き合いください。
偏沉则随,双重则滞。
もう暫くお付き合いください。
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。
一方が重くなればそれに随い動くが、双重となれば則ち滞る。
これは従来より論争が大きく、曖昧さは「偏沈(偏重)」と「双重」の二つの語にあります。まず私達はこの話は二人の推手における技比べを指すと確定します。これは練拳を指すのでもなく、散手を指すのでもなく、単に推手を指した発言です。二人の「試力」である以上、「双重」はもちろん二人とも「重い」を意味します。この二句が意味するのは推手の時両方が力押ししている状態です。「偏沈」は左右の状態で、一方がある処に力を入れる時、もう一方はその力に「随」い、その力に「抗」ってはいけない。(ここでは「随曲就伸」に相当する)
「双重」は前後の状態で、一方が力を入れて前に押すと、他方も力を前に押したり、同じぐらいの力で押したりします。量を差し引くと「双重」です。推手の双方が重くなるという状態です。小さな力で力を転化すれば、「双重」ではありません。「偏重」と「双重」の両方の方法は「小力」で「大力」を被ります。
一つは左右で受けます。又一つは前後で受けます。
(もちろん「受ける」には「変わる」があります。これは別途もう少し詳しく述べます。)どちらも力の「虚実」を言っています。
もし無理に「双重」を(推手ではなく)練拳に関係したものと言えば、外家拳やその他の拳法の馬歩は「双重」と言えますか?
馬歩を主とする八極拳は間違いではないですか? (もし間違いだとすると)なぜ八極拳はあんなに多くの達人が現れたのですか?
また両足が立っている時の「立正」を見て双重といいますか?
これらはおそらく通じないと思います。馬歩と立正は重心の「双重」です。
「試力」の「双重」ではなく、悪いくせでもありません。
每见数年纯功不能运化者,率皆自为人制,双重之病未悟耳。
往々にしてこのような人が見られる、即ち数年もまじめに太極拳を練功してきたにも拘らず自由に操る事ができないのである。このような人は皆自ら人に制せられる。これは双重の病を未だ悟らないからです。
この三つの語句は「双重の病」の弊害を言います。「数年の純功」を練習しました。まだ相手から来る勁を無力化できないのは「双重」が分からないからです。いつも馬歩が「双重」と問いますか?このような偽者問題につきまとわれて、どうして双重をはっきり理解する事ができますか?
実は「双重」は「虚実」がよく分からない病気です。この語句からも「双重」は二人の「重さ」を意味すると証明できます。というのもテキストによると、「皆人に制せられるのは双重の病気はまだ悟られていないからだ。」とあります。この「自他制」は間違いなく他の人のことを指します。つまり、推手で相手に制せられるのは「双重の病を未だ悟らない」ということです。それではどうすればいいですか?次の文を見てください。
欲避此病,须知阴阳。
もし此の病を避けようとすれば、須く陰陽を知る必要がある。
「この病気」とは「双重」のことで、「虚実」がはっきりしないことを意味します。この「力を用いて力がぶつかり、無力化できない」という欠点を避けるには、陰陽の変化を知る必要があります。
「陰」とは柔・虚・軽・合・蓄勢・吸気などを指し、
「陽」は剛、実、重、開、発勁、呼気などを指します。
ここで「陰陽」という表現を使っているものは、練拳及び推手、散手(組手)に関するすべての陰陽概念を表しています。形而上の「陰陽」概念ではありません。
次の文は二つの例を挙げます。すなわち「粘」と「走」の例です。
粘即是走,走即是粘。
粘は即ち走、走は即ち粘。
この二つの語句は非常に簡単です。簡単過ぎて信じられないほどです。
品詞から判断すると、二字はいずれも動詞である。ここの「粘」はzhānと読むべきです(ここでは、黏、粘、沾、三文字の違いに注意します。①「黏」はniánと読み、形容詞であり、ある物体があるものを別のものにくっつけることを形容する性質です。②「粘」はzhānと読む時は動詞です。粘りがあるので、物をくっつけてしまうという意味です。じゅうたんにチューインガムがくっついています。封筒をのりでくっつける。niánと読む時は「黏」の簡略字で、形容詞です。③「沾」読みはzhānで意味は「接触による付着」という意味です。袖に麺がついた。手に泥が少しついた。だから繁体字の太極拳の本では「粘黏連随」と書くのが一般的です。したがって、ここでは「粘」の発音はzhānであって、「黏」niánではありません。
注意:沈寿が校訂している「太極拳譜」は「粘」を「黏」と間違えて書いていますが、これは誤りです。
「走、粘」の二文字は動詞の品詞の方が文意にかなうはずです。)
この文の中の「粘」、「走」の二文字はその後すべて一文字「勁」を省略されています。この字を加えると文の意味が完全になります。即ち「粘勁」は「走勁」であり「走勁」は「粘勁」です。字面を見てもよく分からないようです。言い換えましょう。「粘」は静的で、「走」は動態的ですが、これは分かりやすいですか?あなたが力(勁)を出す時、私は内勁によって先にあなたを「くっつけ」てしまいます。そしてあなたの勁力と共に、私は「歩く勁」を持ちます。あなたがどこに行こうとも私は従って付いていきます。この様な状態の下で、「粘」と「走(歩く)」が一体化したので、「粘」が即ち「走(歩く)」、「走(歩く)」は即ち「粘」となります。これは最初の意味です。
「粘るとは歩くこと、歩くと粘ること」という二番目の意味があります。
それはあなたの「力」を受けさえすれば、すみません、受動的にあなたに従ってはいけません。くっつきながら歩く中で、私の力が変わるのです。つまり、私は自分の力を変化させ、「主客顛倒」し受動的立場から能動的立場になり、あなたの力を牽引し私に従って歩かせ、あなたを受動的にならせます。
冒頭の王宗岳が言った「太極は無極から生じるもので、動静の機、陰陽の母である。動けば則ち分かれ、静まれば則ち合する。よく分かりましたか?
だから、「粘」と「歩く」は同等の意味ではなく、静態の中の「粘勁」は不動ではなく、「外静内動」です。反対に、動態の中の「走勁」もいつも動くのではなく、「外動内静」です。その目的は彼は動かない時、自分は動かず、彼は微かに動く時、自分は先に動く。静的な「粘勁」には運動の「走勁(歩く)」が含まれています。動的な「走勁」の中にもいつでも歩いて無力化する「粘勁」が出てきます。粘勁は「不丢(失わない、離れない)」から得られ、歩き無力化する勁は「不頂(ぶつからない勁)」からなる。不丢不頂(離れず、ぶつからない)の勁は太極の勁であり,混元の勁ともいう。
阴不离阳,阳不离阴,阴阳相济,方为懂劲。
陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相助け合って働くようになると「懂勁」と言えるのである。
この四句は、「くっついて、歩く」ということが達成された時「陰陽互済(引用がお互い揃っている状況)」となし、「陰陽互済」ができたら、懂勁(勁を悟る)段階になります。
懂劲后愈练愈精,默识揣摩,漸至从心所欲。
「懂勁」の後は、いよいよ練ればいよいよ精妙になる。黙々と認識し推量しながら勉強すれば、だんだんと心の欲する所に従う。
この3つの言葉は、力がわかったら、くっついて動きます。練習すればするほど精巧で緻密になり、学び、思索し、次第に思いのままに使えるようになります。
身体はリラックスしていて重く沈み、軽快で機敏です。手が塔手で合わせれば、相手の力の大小、長短、動向、快慢が判り、ここから「何処に来たら、何処に向かって打つか」が分かる「神明」の境地に達します。この言葉は太極拳がなぜ果てしないのかを隠喩しています。ただ練習すればするほど上手になるだけであり、太極拳の功夫は相対的な技量です。絶対のわざではありません。(続く)
【中国語】
【中国語】
偏沉则随,双重则滞。
这句历来争议较大,歧义出在"偏沉"与"双重"两个词上。首先我们确定这句话是指二人推手较技,它既非指练拳,也非指散手,而是单指推手而言的。既然是二人"试力","双重"当然就是指二人都"重"了。二句话讲的都是在推手时双方的"吃劲"状态:"偏沉"是左右状态,当一方用力于某一边时、另一方要"随"其力,而不可"抗"其力(此处可与"随曲就伸"应之);"双重"是前后状态,当一方用力前推时,另一方也等力前推或以差不多的力量相抵,就是"双重"。就是推手双方都"吃重"的意思。若以小力转化之,就不是"双重"了。"偏沉"与"双重"两种方法都是以"小力"吃"大力",一个是左右吃、一个是前后吃(当然要"吃"中有"变",此将另文详述)。二者说的都是劲力的"虚实"。若勉强说"双重"与练拳的关系,那外家拳和其他拳种的马步能叫"双重"吗?以马步为主的八极拳岂不是错了?那为什么八极拳还出现过那么多高手呢?再看双脚站立时的"立正"能叫双重吗?这些恐怕都是说不通的,马步和立正是重心的"双重",不是"试力"的"双重",不为病也。
每见数年纯功不能运化者,率皆自为人制,双重之病未悟耳。
这三句讲"双重之病"的危害:练了 "数年纯功",还不能"运化"对方的来劲,就是因为不明白"双重",老在"马步是否双重?"这种伪问题上纠缠,怎么可能搞得清楚"双重"?其实"双重"就是"虚实"不清楚之病。从这句话也可以证明"双重"是指双人之"重",因为文本说了"率皆自为人制,双重之病未悟耳。""自为人制"肯定是指别人,即推手的对方,"被制"的原因是"双重之病未悟耳"。那怎么办呢?看下句。
欲避此病,须知阴阳。
"此病"还是指"双重",就是指"虚实"不清楚。要避免这个"用力顶抗,不能走化"的毛病,就要懂得阴阳的变化,"阴"指柔、虚、轻、合、蓄、吸气等,"阳"指刚、实、重、开、发劲、呼气等。
注意,此处用"阴阳"来表示的是所有与练拳和推手、散手有关的阴阳概念,而不是形而上的"阴阳"概念。下句举了两个例子,即"粘"和"走"的例子。
粘即是走,走即是粘。
这两句讲的太简单了,简单到难以令人置信!从词性判断,二字当均是动词;此处之"粘"读音应为zhān (此处注意黏、粘、沾三个字的区别:
①
"黏"读nián,是形容词,形容某种物体具有把一种东西粘(zhān)在另一种东西上的性质。
②
"粘"读zhān,是动词,意思是因为有黏性而使物体附着在一起。如:地毯上"粘"了块ロ香糖。用胶水把信封"粘"上。读nián时是"黏"的简化字,是形容词。
③
沾"读zhān,意思是"因接触而附着",如:袖子上"沾"了面。手上"沾"了点儿泥。故繁体字的太极拳书上一般都写作"粘黏连随"。
因此此处"粘"读音应为zhan而非"黏"的读音nnián。注意:沈寿点校的«太极拳谱»将"粘"误写为"黏"是错误的。"走、粘"二字都应是动词词性方符合文意。)
此句话中的"粘"、"走"二字其后都省略了一个字"劲",若加上这个字文句意思就完整了,即"粘劲"就是"走劲"、"走劲"就是"粘劲"。看字面似乎还是不清晰,转换一下:"粘"是静态的、"走"是动态的,这下是否好理解了?你来劲时,我依靠内力先把你"粘"住,然后随着你的劲力我"走劲",你
走到哪里我随到哪里,在这种状态下,"粘""走"一体化了,所以"粘即是走,走即是粘"。这是第一层意思。
"粘即是走,走即是粘"还有第二层意思,那就是只要我接上你的"劲",那就对不起了,不能只被动地"随"你,而是在边粘边走中有我的劲力变化,即我要以我的劲力变化"反客为主",牵着你的劲力随我走,使你成为被动。回忆一下开篇王宗岳说的"太极者,无极而生,动静之机,阴阳之母也。动之则分,静之则合",是不是很清楚了?所以,"粘""走"二字其含义不是相等,是说静态中的"粘劲"不是不动,而是"外静内动";反之,动态中的"走劲"也不是老动,而是"外动内静";其目的是"彼不动,己不动,彼微动,己先动"。故静态的"粘劲"中蕴含着运动的"走劲",动态的"走劲"中也要随时走
化出"粘劲",粘劲由"不丢"而得,走劲由"不顶"而成。"不丢不顶"之劲即为太极劲,也叫混元劲。
阴不离阳,阳不离阴,阴阳相济,方为懂劲。
这四句讲,达到了 "粘、走"如一的时候即为"阴阳互济";做到了"阴阳互济"就到了懂劲阶段。
懂劲后愈练愈精,默识揣摩,漸至从心所欲。
这三句讲,懂劲以后,粘走相生,越练越精巧细密,学思并用,逐渐做到随心所欲、身手松沉而轻灵,搭手即能判断对方之劲力的大小、长短、动向、快慢,从而达到"挨着何处何处击"的"神明"境界。这句话也隐喻了太极拳为什么是没有止境的,只能"愈练愈精",从而太极功夫也就是相对功夫,而非绝对功夫。(未完待续)
0 件のコメント:
コメントを投稿