王宗岳[太極拳論]に関する注釈(3)
文:张禹飞
4、二人での散手(組手):
伝統武術の中で、太極拳の散手は最も独特で、他の門派の技法とは異なります。
王宗岳はここでもうはっきり説明しました。
私の五十年余りの武術の実践によって、太極拳の散手は他の武術の散手と違いがあると考えており、又関連もあると考えています。又その違う部分が関連する部分より多いと考えています。関連しているのは全て技撃の技術です。武術の共通性であって、体操ではなく武術の部分です。ではその違いはどこかと言えば訓練方法、技撃技術及び規則、特に技撃目的と最終的な目標の違いが大きいことです。以下は中国散打を参考に太極拳と比較します(その他の技撃技術は類推できます)。
①
技撃の目的と最終目標:散打は競技です。競技の目的は得点を得る事です。最も良いのは相手をKOする事です。一方太極拳は鍛錬を目的としてものです。その中の推手は太極拳の技術レベルと太極拳の技量、功夫を証明するだけで、ポイントの得点を目的としたものではありません。比較的技術的な要素があっても、競技を通じて相手が技術的に感心するようなもので、ここ数年の太極拳推手のリング試合を見ても、基本的な原則はこの目的から離れません。(太極拳推手の選手は相手をK 0にするという考えがありません。ルールの制限があって、この目標を実現するのは難しいですが。) これは試合中の技術の発揮からその一端が見られ多くを述べる必要はありません。
②
技撃技術:技術的には散打は単一です、というもの目的が相手を倒し最終的にはKOする事ですので相手に反撃能力を失わせるなら、技術要求は「簡単で実用的」であり、最も短い時間で最高の技術を身につけ、上手に運用できます。これは競技者にとってコストが一番低く、収益が一番高い近道です。それに、技術攻撃運動ははっきり言えば若者の天下ですから、中国の武術の諺には「拳は少壮を恐れる」という言葉があります。もし散打も太極拳で言われるように「10年は門の外に出ない」という時間で訓練すれば、すぐに萎縮すると信じています。現代人が一番無駄にいしたくないのは時間です。ところが太極拳はこのような思考ではないです。技術以外に、人間性と心性の修練も必要です。技術修練と人間性や心性修練と比べて、後者のほうが重要で根本的です。技術修練はかえって二次的になります。言い換えれば、太極拳の技術は修練のための付加的なサービスで、修練の実証と修練を導くために存在しています。太極拳は一生のことです。長くやればやるほど価値がでてきます。(太極運動の道理で「天理」を教えてくれます。年長者の経験が豊かなほど、この体現ができます。年を経れば経るほど価値があります。)太極拳の散手といえども、求めているのは純粋な技術ではありません。技術的な人格境界が求められています。人格の境界を追求するなら、相手をK 0に落とすという境界はどれぐらいの人に非難されますか?ところで、太極図自体は陰陽の調和図です。それは人間を陰陽のバランスのとれた思考の枠組みにはめ込んだもので、彼が要求しているのは「老子」四十二章20)の言葉です。「万物負陰而抱陽、冲気以為和 (万物は陰の気を背負い、陽の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気によって調和している。)」 の境涯です。だから、太極拳は生まれて初めて、陰陽のバランス観で技術動作を規定しました。まず柔を求め剛を求めません。剛の力を柔にします。先天的な本力(もともとの力)の影響を克服します(一般に散打は先天的な本力を強化します。)。その次に、太極拳を練習して全面的な人体の運動の技術と十分に人体の総合的な潜在能力を発揮することを要求します。(内在機能を含むので、多くの時間站椿功の試力で立ったり、推手の試力をしたりします。)また、この潜在力は単なる技術的なものではなく、より効率的に生きるため(養生)のものでもあるので、八門五歩、功夫境界、器械功法などの練習内容は、十年でも必ずしも練りこみ把握できないと思います。また、上記の目標が技術設計と競技規則の出発点となっており勝ち負けではなく、技術の高低またはより優れた高さと精密さであり、もちろんこれはトレーニング者の素質、勤勉、師承21)、悟性などの要素と結びついています。これらは短期間ではなかなか効果が上がらないものです。
第四に、散打は簡単なストレート、アッパー、フック等の技術で短期訓練を経て、リング上で二人で対戦できます。万回以上の繰り返し訓練を経て、動きを定型化しそして最短の時間と最高の効率でリングに上がって成績を獲得します。
太極拳は一つの八法だけで散打より二倍近くの動作数が多いです。五行の歩法を加えて二倍になり、八法の技術は複雑で、短期間では把握できません。(主に先天的な本能と習慣的な力を克服することが必要ですが、「習慣は一番変わりにくい」ということわざがあります。)一人の時間は限られており、生きている間に散打の技術水準に到達したいものです。太極拳はおろか、套路を設けない大成拳も散打選手の効果に及ばないです。さらに、太極拳の専門技撃に関してはプロの選手もないし、専門研究機関や研究手段のサポートもありません。ですから、プロの技撃選手が「職業」太極拳師に挑戦する時には、太極拳師は基本的に挑戦に耐えられません。ここの「職業」に引用符をつけるという意味は、この「職業」ですは専門技術ではなく、生計を立てる「職業」のことです。(中には世人をだまして名を盗む人もいます。だから虚構をする人もいます)。
③
トレーニング方法:散打は体力活動であり、技術的な打撃にはいくつかの要素が必要です。例えば、速度、力、身体能力、瞬発力、攻撃力、距離感など。これらの方法は単一のために学びやすく、使いやすいです。動力定型のトレーニングをすれば競技に出場できます。太極拳は知的活動であり、その技撃要素が非常に多いです。例えば放松(ファンソン:リラックス)(つまり人間の本能を放棄し、ある流派では赤ちゃんのような大松大柔状態まで緩めると強調されています。)、柔化(柔らかく無力化)、走勁(相手に合わせた動きの中での無力化)、粘黏連随(力がぶつからず、離れずの状態でくっつく)、擎引松放(①擎:彼の体を持ち上げて彼の力を借りる(中には霊の字があります)。②引:身の前に引いて力を入れて蓄える(中に蓄字があります)。③松:力を緩めて曲げないようにする。④放:解き放つ時は腰と足の両端(中には整の字があります)),引化拿発の勁、四正四隅の推手試力、乱採花、散手など、これらの方法は昔から定説があります。まず手本を見てやってみて、それを実践し、そして新しいものを作っていく過程はとても長いです。これらの技術を全面的に身につけることは、限られた人生ではほとんど実現できないと言えます。しかも、この限られた時間の太部分は太極拳とは無関係な時間で占められています。ですから、トレーニング方法から見ると、太極拳は競技運動には含まれません。太極拳を持って他のボクシング種目と試合をするのは無頓着な事です。太極拳の散手も同様です。
④
競技規則:散打のルールは技術の裁定を重視します、それでもやはり結果を重視します。競技のボトムラインは反則しない事です。一方太極拳の推手や散手の規則は相手の力を利用して人を飛ばす事です。もし相手の勁を無力化し、それを外に発する事ができれば成功です。競技のボトムラインは人を傷つけない事です。人を傷つけないで技術が高ければ高いほど高い点数を得られます。逆にペナルティと判定されれば失格になります。これが両者の違いです。以上の四つの方面の問題を理解したら、再び王宗岳の『太極拳論』の散手に関する論述を解説します。言う処は理があり、根拠があるので,隔靴掻痒というほどのことはありません。
王宗岳《太极拳论》注释(3)
4、双人散手
在传统武术中,太极散手最独特,应有别于其他门派的技法,王宗岳在此已讲得非常清楚。根据我五十多年的武术实践,我觉得太极散手与其他散手有区别,也有关联,且区别多于关联。关联在于它们都是技击术,有武术的共性,是武术而非体操。其区别在于训练方法、技击技术及规则、技击目的和终极目标上差异较大。下面以中国散打为参照与太极拳予以比较(其他技击术可类推)。
① 技击目的和终极目标:散打是竞赛项自,竞技目的主要是打点得分、最好是K0对手。太极拳是锻炼项目,其中的推手较技只是印证太极拳的技术水平及太极功夫,而
不是打点得分,即使有较技成分,也是通过竞技使对手在技术上感觉心服ロ服,看看近几年的推手擂台赛,其基本原则也没有离开这个目的(没有一个太极拳推手选手有把对手K0的想法,可惜规则的限制使这一目标很难实现),这从比赛中的技术发挥就可见一斑,无须多辩。
② 技击技术:从技术看,散打很单一,因为目的是打倒甚至K0对手,使对手失去还击能力,那么技术要求就是"简单实用",即能在最短时间内掌握和熟练运用最好的技术,这对于竞技者来说是成本最小、收益最高的捷径。而且技击运动说白了就是年轻人的天下,所以中国武谚有
句话叫"拳怕少壮",如果散打也以"十年不出门"的时间来训练,相信它很快就会萎缩,现代人最耽误不起的就是时间。太极拳却不是这样思维,除了技术,还要有人性和心性的修炼。技术修炼与人性和心性修炼相比,后者更为重要和根本,技术修炼反而退居其次.换句话说,太极拳
的技术是为修炼服务的,是为了印证和引导修炼的,所以,太极拳是一辈子的事,越老越有价值(它以太极运动之理告诉人"天理".只有年长阅历丰富才有此体会,故越老越有价值)。即使是太极散手,其所追求的也不是纯技术,而是一种技击的人格境界。试想若追求的人格境界是把对手
K0掉,这样的境界得遭到多少人的诟病啊?话说回来,太极图本身就是一幅阴阳和谐图,它是把人限制在阴阳平衡的思维框架内的,它所要求的就是«老子»第四十二章所言"万物负阴而抱阳、冲气以为和"的境界。所以,太极拳在生发之初,就以阴阳平衡观来规定技术动作。首先是求柔不求刚、柔化刚发、克服先天本力的影响(散打则是要强化先天本力);其次,练太极拳要求全面的人体运动技术及充分发挥人体的综合潜能(包括内在机能,所以才要以大块的时间来站桩试力和推手试力),而且该潜能还不单是为了技击而是为了更高效地生存(养生),所以才会有八门五步、功夫境界、器械功法等内容,从而十年都不见得能全部练下来和掌握好;再次,由于上述目标,技术设计和竞技规则的出发点不是输赢,而是技术的高低或更高更精,当然这就与练拳者的天賦、勤奋、师承、悟性等要素又结合起来了,这些是短期内难以奏效的;第四,散打以简单的
直摆勾技术经过短期训练,就可以在擂台二人搏击了,经过上万次的反复训练达到动力定型,然后以最短的时间和最高的效率上台贏得成绩。而太极拳只一个八法就比散打多出近两倍的动作数量,加上五行步法又翻一倍,且八法中每项技术都纷繁复杂、难以短期掌握(主要是要克服先天的本能和习惯性力量,俗话说"习惯是最难改变的").一个人在有限的有生之年想要达到散打的技术水平,别说太极拳,就是不设套路的大成拳也达不到散打运动员的效果,更何况太极拳专业的技击既没有专业运动员,也没有专业研究机构和研究手段的支撑。所以,当有专业技击运动员挑战"职业"太扱拳师时,太极拳师的应战基本是不堪一击的。这里的"职业"加引号的意思是说,此"职业"是指谋生的"职业"而非技术的"专业职业"(其中不乏欺世盗名、故弄玄虚之人)。
③ 训练方法:从训练方法上看,散打是体力活,它在技击上有几大要素是必须训练的,如:速度、力量、体能、爆发力、抗击打能力、距离感等。这些方法因其单一而易学,上手容易,经过动力定型的训练就可以上场竞技。而太极拳是智力活,其技击要素众多,如放松(即放弃人体本能,有些流派甚至强调要松到如婴儿般的大松大柔状态)、柔化、走劲、粘黏连随、擎引松放、引化拿发、四正四隅推手试力、乱采花、散手等等,这些方法先辈早有定论,你必须先依样画葫芦学会、实践,然后再去创新,这个过程非常漫长。可以说,全面掌握这些技术,对一个有限的人生来说几乎很难实现,况且这个有限还被一大部分与太极拳无关的时间占去。所以,从训练方法看,太极拳根本就不属于竞技运动,拿太极拳与其他搏击项目进行比赛是风马牛的事,即使
太极散手也是一样。
④ 竞技规则:散打规则注重技术裁定,但主要还是看结果,竞技底线是不犯规。太极推手或散手规则是借力发人,只要能化掉对方来劲且将其发放出去即为成功,竞技底线是不能伤人,在不伤人的情况下技术越高越能得高分,反之则要判罚甚至取消资格。这就是区别。窃以为如果理解了以上四个方面的问题,再来解读王宗岳«太极拳论»中的有关散手论述,就会言之有理、言之有据,而不至于隔靴搔痒了。
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