陳式心意混元太極拳に関し、外部からは種々の意見があります。その中で陳式太極拳は方から円に行くという事が陳氏太極拳図説から説明されている意見もあります。これに関する私見を述べたいと思います。まず当門では陳氏太極拳図説は門外漢の書としてこれに学ぶ事はありません(実際門外漢の書なのかどうかは分かりませんが、そう言われている為、疑問を持った事はありません)。学ばれるのは自由なのでこれをとやかく言うつもりはありませんが。
陳式心意混元太極拳はあくまでも馮志強老師の命名ですが、この原型を創られた陳発科老師はあくまでも陳式太極拳として改良されたものです。陳発科老師は陳式太極拳の宗家なので敢えて別名をつける必要も無かったはずです。一方小生の身体感覚からは纏絲勁も混元球の上に載せて発する感覚があり、その方が一層強い、抗い難い勁力が出るし、又身体感覚からもしっくりいくものです。従い、方から円、球に行くのでは無く直接混元球を目指す太極拳と思われます。陳発科老師がこの太極拳を作った意図もそこにあるのではないかと考えています。勿論、陳発科老師がどのような順序で太極拳を学んで来られたかどうかは知る由もありません。ひょっとして方から円に至ったのかもしれません。然し乍ら陳発科老師は胡耀貞老師との出会いにより両者が到達した共通の地点をより明確にし、短時間で後学の子弟に学ばせようとされたと思われます。その観点から家伝の陳式太極拳をより高いレベルに修正していったものとみるのはごく自然ではないでしょうか?陳発科老師にとっては自身の家伝である陳式太極拳ですが、馮志強老師にしてみれば元々胡耀貞老師に師事し、胡耀貞老師の推薦で陳発科に学ばれたのですから両老師に対する尊崇の念はどちらが上というものでは無い事は間違いありません。その両老師が共同研究もして、その結果陳発科老師が改良した拳を馮志強老師が最後に集大成したとは言え馮志強老師が両老師の由来を残す意味でも陳式心意混元太極拳と命名する事は容易に想像できる事です。これは馮志強老師だからこそ、この名前になったので、陳発科が命名していれば陳式太極拳でしょう。勿論陳発科老師が改良して時点で出身地である陳家溝で練られている太極拳とは異なりますが、宗家にとっては出身地で練られている拳はどうでも良い事でしょう。どうでも良いと言うのは自身の出身の陳家溝の拳に合わせなければならないという意思が働かないという意味です。
北京陳式の一部からは、これは陳式太極拳の新架式ですねとの意見がありますが、正にそれが妥当な呼び方と思います。
2020年6月3日水曜日
2020年5月31日日曜日
太極拳論注釈3-2
張禹飛老師の太極拳論注釈を今回も転載、翻訳したいと思います。
以下の黄色で色付けした「太極拳論」の内容を逐句解析します。
以下の黄色で色付けした「太極拳論」の内容を逐句解析します。
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。
人刚我柔谓之走,我顺人背谓之粘。动急则急应,动缓则缓随。虽变化万端,
而理唯一贯。……斯技旁门甚多,虽势有区别,概不外壮欺弱、慢让快耳。
有力打无力手慢让手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所为也。
察四两拨千斤之句,显非力胜!观耄耋御众之形,快何能为?……学者不可不详辨焉!是为论。
【各句の解析】
人刚我柔谓之走,我顺人背谓之粘。
相手が剛にして、自分が柔である、これを「走」と謂う。自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事を「粘」という。
前述の「粘着する事は歩くこと、歩くことは粘着すること」は、「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の技撃属性について言っている。然し、技術的性質から見れば、両者には違いがあります。この二文は両者の技術的属性を言います。
この二つの文は推手の角度からその技術的属性を説明し、さらに「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の二つの勁を分析します。
推手している時、相手が勢いよく速く来ている時を剛といいます。
この「剛」にあったら、すぐに手で受けて動きます。すぐに手で受け、動いて無力化します。これは「剛を柔で受け滑らかに無力化する」という意味です。
双方の「走化」の過程で、剛柔態勢はそれぞれの功夫の大きさによって変化し、運動中の状態は、一方がゆったりしていて、他方が対処に疲れている状態になります。これを「一順一被」といいます。このように双方の接触態勢を「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」という勢いにさせ、技量が高くなればなるほど、その転換は速くなります。それが太極拳功夫で、これは「粘勁」と言います。推手の中で時々刻々「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」の状態になる太極拳師だけが太極散手の時に太極勁を用い相手をコントロールでき、こちらが懂勁の太極拳の達人となれ、小さな力で大きな力に勝つ事ができ、老人は青年に勝つ」いうことができます。
(もちろん、その中には悟べき「法」がたくさんあります。これに関しては筆者は別の文で解析します。)
もちろん、「粘」「走」の勁力は「化勁」のほかに(主として捋、采の二つの勁)多くの技術が応用できます。もし「截勁(断力)」のように、相手の力が出そうとする前に立ち切る勁、これも「私順人背」ということです。もちろん、より高級な「聴勁の力」が必要です。
动急则急应,动缓则缓随。
動き急なれば、則ち応ずること急にして、動き緩なれば、則ち緩に随う。
この文はまだ推手と散手に関して述べていますが、主に推手に関して述べています。この文には「粘」と「随」の二文字が内に含まれています。「粘」「随」は相手の動きが速ければこちらもそれに随い速い、相手の動きが遅いなら、こちらもそれに随いゆっくり動きます。これは「捨己従人(我が身を捨てて人に従う)」と「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし:王宗岳十三勢歌)」ということです。「動急則応急(相手の動きが急なればこちらの対応も急である。)」という文の中には「随」があり、「動緩則緩随(相手の動きがゆっくりであればこちらもそれに随ってゆっくり動きます。)」には「粘」が含まれています。「随」は(速度)が相手についていき、「粘」は(相手の力と変化)が感じられます。太極拳はただ遅いだけではなく、特に応用の中で相手の変化に随ってこちらも変化します。それ故「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし)」となるのです。しかし、快慢は「快の時は速くても乱れてはいけませんし、慢の時はゆっくりでも滞ってはいけません。」
虽变化万端,而理唯一贯。
変化万端ありと雖も、理は一貫している。
つまり、どのように場面が変わっても、習熟していて勁が分かり、「捨己従人」自分を捨てて相手に随います。「粘(粘着する事)」、「走(相手に合わせ歩く、動く事)」が共に生じ、相手が急であれば急で応じ、緩やかであれば緩やかに応じる道理は一貫している。もちろん、この「理」は前述の太極の道理です。「太極拳の理」から外れる拳術は、いずれも太極拳ではありません。太極拳を現代のボクシングと比べる事が駄目だという訳ではありませんが、太極拳のルールの下で技比べをするだけです。そうしないと技比べの意味がなくなります。笑い草になるだけです。
斯技旁门甚多,虽势有区别,概不外壮欺弱、慢让快耳。有力打无力,手慢让手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所为也。
拳法には色々な流派がある。練習姿勢は色々区別はあるが、概ね強壮な者が軟弱な者を挫き、スピードの速いものが遅いものに勝る。力ある者が力無き者を打ち、手の早いものが遅いものに勝る。これ皆先天自然の力で、学んで身に着けた技術ではない。
「斯技」はここですべての中国伝統武術の技法を指すべきです。だから「傍門が非常に多い」ということです。(ここの「傍門」は「脇道の派生した流派」ではなく、「その他の門派」を意味します)。これらの「他流派」の技撃法は、すべて人の天賦本能を踏襲し、強化しているに過ぎません。例えば:強いものが弱い者を挫き、ゆっくりな動きのものが速い動きのものに後れる、力強い者が力が無い者を打つなどです。作者は言います。これらの天賦本能は太極拳の「学得功夫(修業で得た功夫)」とは関係がないと著者は言っています。(ここの「学力」とは「学得功夫(修業で得た功夫)」を意味します)。
逆に言えば「柔をもって剛を制す(力の無い者が力ある者に勝つ、力が弱いものが、力強い者に勝つ)」、慢が快を制する(動きの遅いものが、動きの速い者を制する)だけです。これこそが太極拳を練功した後に得た勁で、「修行で得た功夫」に直結する技芸です。
察四两拨千斤之句,显非力胜!
よく見てください「四両で千斤22)を撥く」の句を。明らかに力で勝っているのではない。
この2つの句は力の形態から言ったのです。
先賢が言っている「四両撥千斤」の技は、明らかに力のワザではありません。
人と推手を行う時の変化は霊妙で、柔らかく触れながら無力化し、「引進落空(空に引き込む)」事によって私は主体的で滑らかな態勢になり、相手が受動的で滑らかではなくなる。これによって四両撥千斤の技術で相手の力を借りて勁を発します。これは蛮力に依存してては達成できない事です。後天の学習と反復の実践がなければ不可能な事です。太極拳は速度と力を求めませんが、速度と力の原因を追求します。これが太極拳の「勝ちを制する根本」となっています。それに太極拳で防御する時は「四両撥千斤」を使います。攻撃する時は逆の道を使います。
馮志強先生は「千斤の力を鍛え、四両の気しか使わない。」と言われました。
【中国語】
下面逐句解析«太极拳论»内容。
人刚我柔谓之走,我顺人背谓之粘。动急则急应,动缓则缓随。虽变化万端,而理唯一贯。……斯技旁门甚多,虽势有区别,概不外壮欺弱、慢让快耳。有力打无力手慢让手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所为也。察四两拨千斤之句,显非力胜!观耄耋御众之形,快何能为?……学者不可不详辨焉!是为论。
【分句解析】
人刚我柔谓之走,我顺人背谓之粘。
前面述及"粘即是走,走即是粘",是就"粘""走"的技击属性而言的。若从技术属性上看,二者还是有区别的,此二句说的就是它扪的技术属性。此二句是从推手角度言及其技术属性的,并进一步深入解析“粘""走"二劲。在推手时,当对方来劲大、来势快时谓之"刚",遇此"刚"时,我须即速以"接手即走、即接即走"化之,此谓"刚来柔接顺势化之"。双方"走化"过程中,刚柔态势会随各自功夫的大小而改变,运动中的状态会变成一方从容不迫、另一方疲于应付,这叫"一顺一被",这种使双方接触态势形成"我顺人背"之势,手愈高其转换愈快,就是太极功夫,这就叫"粘劲"。只有在推手中时刻能达到"我顺人被"状态的太极拳师,才能在太极散手时,用"太极劲"控制住对方,能达此方为"懂劲"高手,就能达到"小力胜大力、老头胜青年"(当然其中还有很多"法"要领悟,笔者将另行文解析)。当然,"粘""走"之劲除"化勁"外(主要是捋采两劲),还有很多技术可以应用,如"截劲",即将对方的劲力堵截在未发出之前,这也是"我顺人被",当然这需要更高级的"听劲"能力。
动急则急应,动缓则缓随。
此句仍讲推手、散手,但是以推手为主的。其中蕴含"粘""随"二字。"粘""随"是说对方动得快我则快随、对方动得慢我则慢随,此即"舍己从人"和"因敌变化示神奇"。"动急则急应"中含"随"字,"动缓则缓随"中含"粘"字。"随"要跟得上(速度),"粘"要感觉得到(力度和变化),太极拳并非只慢不快,尤其在应用中是随对方之变化而变化的,故能"因敌变化示神奇"。但无论快慢均
要做到"快不可错乱,慢不可呆滞"。
虽变化万端,而理唯一贯。
即无论场景如何变化,着熟懂劲、舍己从人、粘走相生、急应缓随的道理是一贯的。当然,这个"理"就是我们前述的太极之理。偏离"太极拳之理"的拳技法术,均非太极拳也。太极拳与现代搏击较技也非不可,只是要在太极拳规则下较技,否则就失去了较技的意义。徒增笑柄而
已!
斯技旁门甚多,虽势有区别,概不外壮欺弱、慢让快耳。有力打无力,手慢让手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所为也。
"斯技"在此应是指所有的中国传统武术技法,所以说"旁门甚多"(此处"旁门"非指"左道旁门",而是指"其他门派")。这些"旁门"的技击法,不外乎都是在沿袭和强化人的天赋本能,如:壮欺弱、慢让快、有力打无力等等。作者说了,这些天賦本能与太极拳的"学得功夫"无关(此处的"学力"即指"学得功夫")。反过来说,只有"以柔克刚"(无力胜有力、小力胜大力),"慢制快"(手慢缚手快)才是练太极拳后的得来之劲,是与"学力"有关的技艺。
察四两拨千斤之句,显非力胜!
这两句是从力量形态上说的。先贤所说的"四两拨千斤"之技,显然不是力量的功旁。与人推手、交手时变化灵活,通过柔顺走化、引进落空而转为我顺人背,从而达到以四两拨千斤的技巧借力发放,这不是靠蛮力做到的,没有后天的学习和反复实践是不可能的。太极拳不追求速度和力量,但追求产生速度和力量的原因,这是太极拳的"制胜之本"。而且太极拳防御时用"四两拨千斤",进攻时却是要反其道的。冯志强先生讲:"练出千斤力,只用四两气。
2020年5月3日日曜日
太極拳論注釈3-1
今回は太極拳の組手についてです。張老師は元々武漢で組手ばかりやっておられた方です。馮志強と同じ長屋に住まわれてからも馮志強老師と組手を頻繁にやっておられたと言われていました。その張老師の組手の理解が以下述べられています。
王宗岳[太極拳論]に関する注釈(3)
文:张禹飞
4、二人での散手(組手):
伝統武術の中で、太極拳の散手は最も独特で、他の門派の技法とは異なります。
王宗岳はここでもうはっきり説明しました。
私の五十年余りの武術の実践によって、太極拳の散手は他の武術の散手と違いがあると考えており、又関連もあると考えています。又その違う部分が関連する部分より多いと考えています。関連しているのは全て技撃の技術です。武術の共通性であって、体操ではなく武術の部分です。ではその違いはどこかと言えば訓練方法、技撃技術及び規則、特に技撃目的と最終的な目標の違いが大きいことです。以下は中国散打を参考に太極拳と比較します(その他の技撃技術は類推できます)。
①
技撃の目的と最終目標:散打は競技です。競技の目的は得点を得る事です。最も良いのは相手をKOする事です。一方太極拳は鍛錬を目的としてものです。その中の推手は太極拳の技術レベルと太極拳の技量、功夫を証明するだけで、ポイントの得点を目的としたものではありません。比較的技術的な要素があっても、競技を通じて相手が技術的に感心するようなもので、ここ数年の太極拳推手のリング試合を見ても、基本的な原則はこの目的から離れません。(太極拳推手の選手は相手をK 0にするという考えがありません。ルールの制限があって、この目標を実現するのは難しいですが。) これは試合中の技術の発揮からその一端が見られ多くを述べる必要はありません。
②
技撃技術:技術的には散打は単一です、というもの目的が相手を倒し最終的にはKOする事ですので相手に反撃能力を失わせるなら、技術要求は「簡単で実用的」であり、最も短い時間で最高の技術を身につけ、上手に運用できます。これは競技者にとってコストが一番低く、収益が一番高い近道です。それに、技術攻撃運動ははっきり言えば若者の天下ですから、中国の武術の諺には「拳は少壮を恐れる」という言葉があります。もし散打も太極拳で言われるように「10年は門の外に出ない」という時間で訓練すれば、すぐに萎縮すると信じています。現代人が一番無駄にいしたくないのは時間です。ところが太極拳はこのような思考ではないです。技術以外に、人間性と心性の修練も必要です。技術修練と人間性や心性修練と比べて、後者のほうが重要で根本的です。技術修練はかえって二次的になります。言い換えれば、太極拳の技術は修練のための付加的なサービスで、修練の実証と修練を導くために存在しています。太極拳は一生のことです。長くやればやるほど価値がでてきます。(太極運動の道理で「天理」を教えてくれます。年長者の経験が豊かなほど、この体現ができます。年を経れば経るほど価値があります。)太極拳の散手といえども、求めているのは純粋な技術ではありません。技術的な人格境界が求められています。人格の境界を追求するなら、相手をK 0に落とすという境界はどれぐらいの人に非難されますか?ところで、太極図自体は陰陽の調和図です。それは人間を陰陽のバランスのとれた思考の枠組みにはめ込んだもので、彼が要求しているのは「老子」四十二章20)の言葉です。「万物負陰而抱陽、冲気以為和 (万物は陰の気を背負い、陽の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気によって調和している。)」 の境涯です。だから、太極拳は生まれて初めて、陰陽のバランス観で技術動作を規定しました。まず柔を求め剛を求めません。剛の力を柔にします。先天的な本力(もともとの力)の影響を克服します(一般に散打は先天的な本力を強化します。)。その次に、太極拳を練習して全面的な人体の運動の技術と十分に人体の総合的な潜在能力を発揮することを要求します。(内在機能を含むので、多くの時間站椿功の試力で立ったり、推手の試力をしたりします。)また、この潜在力は単なる技術的なものではなく、より効率的に生きるため(養生)のものでもあるので、八門五歩、功夫境界、器械功法などの練習内容は、十年でも必ずしも練りこみ把握できないと思います。また、上記の目標が技術設計と競技規則の出発点となっており勝ち負けではなく、技術の高低またはより優れた高さと精密さであり、もちろんこれはトレーニング者の素質、勤勉、師承21)、悟性などの要素と結びついています。これらは短期間ではなかなか効果が上がらないものです。
第四に、散打は簡単なストレート、アッパー、フック等の技術で短期訓練を経て、リング上で二人で対戦できます。万回以上の繰り返し訓練を経て、動きを定型化しそして最短の時間と最高の効率でリングに上がって成績を獲得します。
太極拳は一つの八法だけで散打より二倍近くの動作数が多いです。五行の歩法を加えて二倍になり、八法の技術は複雑で、短期間では把握できません。(主に先天的な本能と習慣的な力を克服することが必要ですが、「習慣は一番変わりにくい」ということわざがあります。)一人の時間は限られており、生きている間に散打の技術水準に到達したいものです。太極拳はおろか、套路を設けない大成拳も散打選手の効果に及ばないです。さらに、太極拳の専門技撃に関してはプロの選手もないし、専門研究機関や研究手段のサポートもありません。ですから、プロの技撃選手が「職業」太極拳師に挑戦する時には、太極拳師は基本的に挑戦に耐えられません。ここの「職業」に引用符をつけるという意味は、この「職業」ですは専門技術ではなく、生計を立てる「職業」のことです。(中には世人をだまして名を盗む人もいます。だから虚構をする人もいます)。
③
トレーニング方法:散打は体力活動であり、技術的な打撃にはいくつかの要素が必要です。例えば、速度、力、身体能力、瞬発力、攻撃力、距離感など。これらの方法は単一のために学びやすく、使いやすいです。動力定型のトレーニングをすれば競技に出場できます。太極拳は知的活動であり、その技撃要素が非常に多いです。例えば放松(ファンソン:リラックス)(つまり人間の本能を放棄し、ある流派では赤ちゃんのような大松大柔状態まで緩めると強調されています。)、柔化(柔らかく無力化)、走勁(相手に合わせた動きの中での無力化)、粘黏連随(力がぶつからず、離れずの状態でくっつく)、擎引松放(①擎:彼の体を持ち上げて彼の力を借りる(中には霊の字があります)。②引:身の前に引いて力を入れて蓄える(中に蓄字があります)。③松:力を緩めて曲げないようにする。④放:解き放つ時は腰と足の両端(中には整の字があります)),引化拿発の勁、四正四隅の推手試力、乱採花、散手など、これらの方法は昔から定説があります。まず手本を見てやってみて、それを実践し、そして新しいものを作っていく過程はとても長いです。これらの技術を全面的に身につけることは、限られた人生ではほとんど実現できないと言えます。しかも、この限られた時間の太部分は太極拳とは無関係な時間で占められています。ですから、トレーニング方法から見ると、太極拳は競技運動には含まれません。太極拳を持って他のボクシング種目と試合をするのは無頓着な事です。太極拳の散手も同様です。
④
競技規則:散打のルールは技術の裁定を重視します、それでもやはり結果を重視します。競技のボトムラインは反則しない事です。一方太極拳の推手や散手の規則は相手の力を利用して人を飛ばす事です。もし相手の勁を無力化し、それを外に発する事ができれば成功です。競技のボトムラインは人を傷つけない事です。人を傷つけないで技術が高ければ高いほど高い点数を得られます。逆にペナルティと判定されれば失格になります。これが両者の違いです。以上の四つの方面の問題を理解したら、再び王宗岳の『太極拳論』の散手に関する論述を解説します。言う処は理があり、根拠があるので,隔靴掻痒というほどのことはありません。
王宗岳《太极拳论》注释(3)
4、双人散手
在传统武术中,太极散手最独特,应有别于其他门派的技法,王宗岳在此已讲得非常清楚。根据我五十多年的武术实践,我觉得太极散手与其他散手有区别,也有关联,且区别多于关联。关联在于它们都是技击术,有武术的共性,是武术而非体操。其区别在于训练方法、技击技术及规则、技击目的和终极目标上差异较大。下面以中国散打为参照与太极拳予以比较(其他技击术可类推)。
① 技击目的和终极目标:散打是竞赛项自,竞技目的主要是打点得分、最好是K0对手。太极拳是锻炼项目,其中的推手较技只是印证太极拳的技术水平及太极功夫,而
不是打点得分,即使有较技成分,也是通过竞技使对手在技术上感觉心服ロ服,看看近几年的推手擂台赛,其基本原则也没有离开这个目的(没有一个太极拳推手选手有把对手K0的想法,可惜规则的限制使这一目标很难实现),这从比赛中的技术发挥就可见一斑,无须多辩。
② 技击技术:从技术看,散打很单一,因为目的是打倒甚至K0对手,使对手失去还击能力,那么技术要求就是"简单实用",即能在最短时间内掌握和熟练运用最好的技术,这对于竞技者来说是成本最小、收益最高的捷径。而且技击运动说白了就是年轻人的天下,所以中国武谚有
句话叫"拳怕少壮",如果散打也以"十年不出门"的时间来训练,相信它很快就会萎缩,现代人最耽误不起的就是时间。太极拳却不是这样思维,除了技术,还要有人性和心性的修炼。技术修炼与人性和心性修炼相比,后者更为重要和根本,技术修炼反而退居其次.换句话说,太极拳
的技术是为修炼服务的,是为了印证和引导修炼的,所以,太极拳是一辈子的事,越老越有价值(它以太极运动之理告诉人"天理".只有年长阅历丰富才有此体会,故越老越有价值)。即使是太极散手,其所追求的也不是纯技术,而是一种技击的人格境界。试想若追求的人格境界是把对手
K0掉,这样的境界得遭到多少人的诟病啊?话说回来,太极图本身就是一幅阴阳和谐图,它是把人限制在阴阳平衡的思维框架内的,它所要求的就是«老子»第四十二章所言"万物负阴而抱阳、冲气以为和"的境界。所以,太极拳在生发之初,就以阴阳平衡观来规定技术动作。首先是求柔不求刚、柔化刚发、克服先天本力的影响(散打则是要强化先天本力);其次,练太极拳要求全面的人体运动技术及充分发挥人体的综合潜能(包括内在机能,所以才要以大块的时间来站桩试力和推手试力),而且该潜能还不单是为了技击而是为了更高效地生存(养生),所以才会有八门五步、功夫境界、器械功法等内容,从而十年都不见得能全部练下来和掌握好;再次,由于上述目标,技术设计和竞技规则的出发点不是输赢,而是技术的高低或更高更精,当然这就与练拳者的天賦、勤奋、师承、悟性等要素又结合起来了,这些是短期内难以奏效的;第四,散打以简单的
直摆勾技术经过短期训练,就可以在擂台二人搏击了,经过上万次的反复训练达到动力定型,然后以最短的时间和最高的效率上台贏得成绩。而太极拳只一个八法就比散打多出近两倍的动作数量,加上五行步法又翻一倍,且八法中每项技术都纷繁复杂、难以短期掌握(主要是要克服先天的本能和习惯性力量,俗话说"习惯是最难改变的").一个人在有限的有生之年想要达到散打的技术水平,别说太极拳,就是不设套路的大成拳也达不到散打运动员的效果,更何况太极拳专业的技击既没有专业运动员,也没有专业研究机构和研究手段的支撑。所以,当有专业技击运动员挑战"职业"太扱拳师时,太极拳师的应战基本是不堪一击的。这里的"职业"加引号的意思是说,此"职业"是指谋生的"职业"而非技术的"专业职业"(其中不乏欺世盗名、故弄玄虚之人)。
③ 训练方法:从训练方法上看,散打是体力活,它在技击上有几大要素是必须训练的,如:速度、力量、体能、爆发力、抗击打能力、距离感等。这些方法因其单一而易学,上手容易,经过动力定型的训练就可以上场竞技。而太极拳是智力活,其技击要素众多,如放松(即放弃人体本能,有些流派甚至强调要松到如婴儿般的大松大柔状态)、柔化、走劲、粘黏连随、擎引松放、引化拿发、四正四隅推手试力、乱采花、散手等等,这些方法先辈早有定论,你必须先依样画葫芦学会、实践,然后再去创新,这个过程非常漫长。可以说,全面掌握这些技术,对一个有限的人生来说几乎很难实现,况且这个有限还被一大部分与太极拳无关的时间占去。所以,从训练方法看,太极拳根本就不属于竞技运动,拿太极拳与其他搏击项目进行比赛是风马牛的事,即使
太极散手也是一样。
④ 竞技规则:散打规则注重技术裁定,但主要还是看结果,竞技底线是不犯规。太极推手或散手规则是借力发人,只要能化掉对方来劲且将其发放出去即为成功,竞技底线是不能伤人,在不伤人的情况下技术越高越能得高分,反之则要判罚甚至取消资格。这就是区别。窃以为如果理解了以上四个方面的问题,再来解读王宗岳«太极拳论»中的有关散手论述,就会言之有理、言之有据,而不至于隔靴搔痒了。
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