2020年5月31日日曜日

太極拳論注釈3-2


張禹飛老師の太極拳論注釈を今回も転載、翻訳したいと思います。

以下の黄色で色付けした「太極拳論」の内容を逐句解析します。

太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。着熟而漸悟勁、由勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!

察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。



我柔之走,人背之粘。,动缓则缓随。虽变化万端,
而理唯一。……斯技旁甚多,虽势有区,概不外壮欺弱、慢快耳。
有力打无力手慢手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所也。
察四两千斤之句,非力耄耋御众之形,快何能?……学者不可不辨焉!是为论
【各句の解析】
我柔之走,人背之粘。
相手が剛にして、自分が柔である、これを「走」と謂う。自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事を「粘」という。
前述の「粘着する事は歩くこと、歩くことは粘着すること」は、「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の技撃属性について言っている。然し、技術的性質から見れば、両者には違いがあります。この二文は両者の技術的属性を言います。
この二つの文は推手の角度からその技術的属性を説明し、さらに「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の二つの勁を分析します。
推手している時、相手が勢いよく速く来ている時を剛といいます。
この「剛」にあったら、すぐに手で受けて動きます。すぐに手で受け、動いて無力化します。これは「剛を柔で受け滑らかに無力化する」という意味です。
双方の「走化」の過程で、剛柔態勢はそれぞれの功夫の大きさによって変化し、運動中の状態は、一方がゆったりしていて、他方が対処に疲れている状態になります。これを「一順一被」といいます。このように双方の接触態勢を「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」という勢いにさせ、技量が高くなればなるほど、その転換は速くなります。それが太極拳功夫で、これは「粘勁」と言います。推手の中で時々刻々「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」の状態になる太極拳師だけが太極散手の時に太極勁を用い相手をコントロールでき、こちらが懂勁の太極拳の達人となれ、小さな力で大きな力に勝つ事ができ、老人は青年に勝つ」いうことができます。
(もちろん、その中には悟べき「法」がたくさんあります。これに関しては筆者は別の文で解析します。)
もちろん、「粘」「走」の勁力は「化勁」のほかに(主として捋、采の二つの勁)多くの技術が応用できます。もし「勁(断力)」のように、相手の力が出そうとする前に立ち切る勁、これも「私順人背」ということです。もちろん、より高級な「聴勁の力」が必要です。
,动缓则缓
動き急なれば、則ち応ずること急にして、動き緩なれば、則ち緩に随う。
この文はまだ推手と散手に関して述べていますが、主に推手に関して述べています。この文には「粘」と「随」の二文字が内に含まれています。「粘」「随」は相手の動きが速ければこちらもそれに随い速い、相手の動きが遅いなら、こちらもそれに随いゆっくり動きます。これは「捨己従人(我が身を捨てて人に従う)」と「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし:王宗岳十三勢歌)」ということです。「動急則応急(相手の動きが急なればこちらの対応も急である。)」という文の中には「随」があり、「動緩則緩随(相手の動きがゆっくりであればこちらもそれに随ってゆっくり動きます。)」には「粘」が含まれています。「随」は(速度)が相手についていき、「粘」は(相手の力と変化)が感じられます。太極拳はただ遅いだけではなく、特に応用の中で相手の変化に随ってこちらも変化します。それ故「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし)」となるのです。しかし、快慢は「快の時は速くても乱れてはいけませんし、慢の時はゆっくりでも滞ってはいけません。」
虽变化万端,而理唯一
変化万端ありと雖も、理は一貫している。
つまり、どのように場面が変わっても、習熟していて勁が分かり、「捨己従人」自分を捨てて相手に随います。「粘(粘着する事)」、「走(相手に合わせ歩く、動く事)」が共に生じ、相手が急であれば急で応じ、緩やかであれば緩やかに応じる道理は一貫している。もちろん、この「理」は前述の太極の道理です。「太極拳の理」から外れる拳術は、いずれも太極拳ではありません。太極拳を現代のボクシングと比べる事が駄目だという訳ではありませんが、太極拳のルールの下で技比べをするだけです。そうしないと技比べの意味がなくなります。笑い草になるだけです。
斯技旁甚多,虽势有区,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力,手慢手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所
拳法には色々な流派がある。練習姿勢は色々区別はあるが、概ね強壮な者が軟弱な者を挫き、スピードの速いものが遅いものに勝る。力ある者が力無き者を打ち、手の早いものが遅いものに勝る。これ皆先天自然の力で、学んで身に着けた技術ではない。
「斯技」はここですべての中国伝統武術の技法を指すべきです。だから「傍門が非常に多い」ということです。(ここの「傍門」は「脇道の派生した流派」ではなく、「その他の門派」を意味します)。これらの「他流派」の技撃法は、すべて人の天賦本能を踏襲し、強化しているに過ぎません。例えば:強いものが弱い者を挫き、ゆっくりな動きのものが速い動きのものに後れる、力強い者が力が無い者を打つなどです。作者は言います。これらの天賦本能は太極拳の「学得功夫(修業で得た功夫)」とは関係がないと著者は言っています。(ここの「学力」とは「学得功夫(修業で得た功夫)」を意味します)。
逆に言えば「柔をもって剛を制す(力の無い者が力ある者に勝つ、力が弱いものが、力強い者に勝つ)」、慢が快を制する(動きの遅いものが、動きの速い者を制する)だけです。これこそが太極拳を練功した後に得た勁で、「修行で得た功夫」に直結する技芸です。
察四两千斤之句,非力
よく見てください「四両で千斤22)を撥く」の句を。明らかに力で勝っているのではない。
この2つの句は力の形態から言ったのです。
先賢が言っている「四両撥千斤」の技は、明らかに力のワザではありません。
人と推手を行う時の変化は霊妙で、柔らかく触れながら無力化し、「引進落空(空に引き込む)」事によって私は主体的で滑らかな態勢になり、相手が受動的で滑らかではなくなる。これによって四両撥千斤の技術で相手の力を借りて勁を発します。これは蛮力に依存してては達成できない事です。後天の学習と反復の実践がなければ不可能な事です。太極拳は速度と力を求めませんが、速度と力の原因を追求します。これが太極拳の「勝ちを制する根本」となっています。それに太極拳で防御する時は「四両撥千斤」を使います。攻撃する時は逆の道を使います。

馮志強先生は「千斤の力を鍛え、四両の気しか使わない。」と言われました。

【中国語】


下面逐句解析«太极拳»内容。
我柔之走,人背之粘。,动缓则缓随。虽化万端,而理唯一……斯技旁门甚多,有区别,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力手慢手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所也。察四两千斤之句,非力耄耋御众之形,快何能……学者不可不辨焉!是为论

【分句解析】
我柔之走,人背之粘。
前面述及"粘即是走,走即是粘",是就""""的技击属性而言的。若从技术属性上看,二者还是有区别的,此二句的就是它的技属性。此二句是从推手角度言及其技属性的,一步深入解析"""。在推手,方来大、来时谓"",遇此"",即速以"接手即走、即接即走"化之,"来柔接顺势化之"。双方"走化"程中,态势会随各自功夫的大小而改,中的状成一方从容不迫、另一方疲于,"一被",种使双方接触态势形成"人背",手愈高其转换愈快,就是太极功夫,就叫""。只有在推手中刻能达到"人被"的太极拳,才能在太极散手,"太极"控制住,能达此方""高手,就能达到"小力大力、老头胜青年"(当然其中有很多"",笔者将另行文解析)。当然,"""""化勁"(主要是捋采两),有很多技可以,"",即将方的力堵截在未出之前,也是"人被",当然需要更高""能力。

动急则急应,动缓则缓随。
此句仍推手、散手,但是以推手主的。其中""""二字。""""说对得快我快随、得慢我慢随,此即"舍己从人""敌变化示神奇"""中含"","动缓则缓"中含""字。""要跟得上(速度),""要感得到(力度和),太极拳并非只慢不快,尤其在用中是随方之化而化的,故能"敌变化示神奇"。但无快慢均
要做到"快不可,慢不可呆滞"

化万端,而理唯一
即无论场景如何,着熟懂、舍己从人、粘走相生、急应缓随的道理是一的。当然,""就是我前述的太极之理。偏离"太极拳之理"的拳技法,均非太极拳也。太极拳与代搏击较技也非不可,只是要在太极拳规则,就失去了技的意。徒增笑柄而
已!

斯技旁门甚多,有区别,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力,手慢手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所也。
"斯技"在此是指所有的中国传统技法,所以"旁门甚多"("旁门"非指"左道旁门",而是指"其他门派")"旁门"的技,不外乎都是在沿和强化人的天本能,:壮欺弱、慢快、有力打无力等等。作者,些天賦本能与太极拳的"学得功夫"无关("学力"即指"学得功夫")。反,只有"以柔克"(无力有力、小力大力),"慢制快"(手慢手快)才是太极拳后的得来之,是与"学力"有关的技

察四两千斤之句,非力
两句是从力量形的。先"四两千斤"之技,然不是力量的功旁。与人推手、交手时变化灵活,走化、引落空而转为人背,从而达到以四两千斤的技巧借力,不是靠蛮力做到的,没有后天的学和反复践是不可能的。太极拳不追求速度和力量,但追求产生速度和力量的原因,这是太极拳的"制胜之本"。而且太极拳防御时用"四两拨千斤",进攻时却是要反其道的。冯志强先生讲:"练出千斤力,只用四两气。

2020年5月3日日曜日

太極拳論注釈3-1

今回は太極拳の組手についてです。張老師は元々武漢で組手ばかりやっておられた方です。馮志強と同じ長屋に住まわれてからも馮志強老師と組手を頻繁にやっておられたと言われていました。その張老師の組手の理解が以下述べられています。

王宗岳[太極拳論]に関する注釈(3)
文:张禹飞
4、二人での散手(組手):
伝統武術の中で、太極拳の散手は最も独特で、他の門派の技法とは異なります。
王宗岳はここでもうはっきり説明しました。
私の五十年余りの武術の実践によって、太極拳の散手は他の武術の散手と違いがあると考えており、又関連もあると考えています。又その違う部分が関連する部分より多いと考えています。関連しているのは全て技撃の技術です。武術の共通性であって、体操ではなく武術の部分です。ではその違いはどこかと言えば訓練方法、技撃技術及び規則、特に技撃目的と最終的な目標の違いが大きいことです。以下は中国散打を参考に太極拳と比較します(その他の技撃技術は類推できます)。
   技撃の目的と最終目標:散打は競技です。競技の目的は得点を得る事です。最も良いのは相手をKOする事です。一方太極拳は鍛錬を目的としてものです。その中の推手は太極拳の技術レベルと太極拳の技量、功夫を証明するだけで、ポイントの得点を目的としたものではありません。比較的技術的な要素があっても、競技を通じて相手が技術的に感心するようなもので、ここ数年の太極拳推手のリング試合を見ても、基本的な原則はこの目的から離れません。(太極拳推手の選手は相手をK 0にするという考えがありません。ルールの制限があって、この目標を実現するのは難しいですが。) これは試合中の技術の発揮からその一端が見られ多くを述べる必要はありません。
   技撃技術:技術的には散打は単一です、というもの目的が相手を倒し最終的にはKOする事ですので相手に反撃能力を失わせるなら、技術要求は「簡単で実用的」であり、最も短い時間で最高の技術を身につけ、上手に運用できます。これは競技者にとってコストが一番低く、収益が一番高い近道です。それに、技術攻撃運動ははっきり言えば若者の天下ですから、中国の武術の諺には「拳は少壮を恐れる」という言葉があります。もし散打も太極拳で言われるように「10年は門の外に出ない」という時間で訓練すれば、すぐに萎縮すると信じています。現代人が一番無駄にいしたくないのは時間です。ところが太極拳はこのような思考ではないです。技術以外に、人間性と心性の修練も必要です。技術修練と人間性や心性修練と比べて、後者のほうが重要で根本的です。技術修練はかえって二次的になります。言い換えれば、太極拳の技術は修練のための付加的なサービスで、修練の実証と修練を導くために存在しています。太極拳は一生のことです。長くやればやるほど価値がでてきます。(太極運動の道理で「天理」を教えてくれます。年長者の経験が豊かなほど、この体現ができます。年を経れば経るほど価値があります。)太極拳の散手といえども、求めているのは純粋な技術ではありません。技術的な人格境界が求められています。人格の境界を追求するなら、相手をK 0に落とすという境界はどれぐらいの人に非難されますか?ところで、太極図自体は陰陽の調和図です。それは人間を陰陽のバランスのとれた思考の枠組みにはめ込んだもので、彼が要求しているのは「老子」四十二章20の言葉です。「万物負陰而抱陽、冲気以為和 (万物は陰の気を背負い、陽の気を胸に抱いて、これらを媒介する沖気によって調和している。)」 の境涯です。だから、太極拳は生まれて初めて、陰陽のバランス観で技術動作を規定しました。まず柔を求め剛を求めません。剛の力を柔にします。先天的な本力(もともとの力)の影響を克服します(一般に散打は先天的な本力を強化します。)。その次に、太極拳を練習して全面的な人体の運動の技術と十分に人体の総合的な潜在能力を発揮することを要求します。(内在機能を含むので、多くの時間站椿功の試力で立ったり、推手の試力をしたりします。)また、この潜在力は単なる技術的なものではなく、より効率的に生きるため(養生)のものでもあるので、八門五歩、功夫境界、器械功法などの練習内容は、十年でも必ずしも練りこみ把握できないと思います。また、上記の目標が技術設計と競技規則の出発点となっており勝ち負けではなく、技術の高低またはより優れた高さと精密さであり、もちろんこれはトレーニング者の素質、勤勉、師承21)、悟性などの要素と結びついています。これらは短期間ではなかなか効果が上がらないものです。
第四に、散打は簡単なストレート、アッパー、フック等の技術で短期訓練を経て、リング上で二人で対戦できます。万回以上の繰り返し訓練を経て、動きを定型化しそして最短の時間と最高の効率でリングに上がって成績を獲得します。 太極拳は一つの八法だけで散打より二倍近くの動作数が多いです。五行の歩法を加えて二倍になり、八法の技術は複雑で、短期間では把握できません。(主に先天的な本能と習慣的な力を克服することが必要ですが、「習慣は一番変わりにくい」ということわざがあります。)一人の時間は限られており、生きている間に散打の技術水準に到達したいものです。太極拳はおろか、套路を設けない大成拳も散打選手の効果に及ばないです。さらに、太極拳の専門技撃に関してはプロの選手もないし、専門研究機関や研究手段のサポートもありません。ですから、プロの技撃選手が「職業」太極拳師に挑戦する時には、太極拳師は基本的に挑戦に耐えられません。ここの「職業」に引用符をつけるという意味は、この「職業」ですは専門技術ではなく、生計を立てる「職業」のことです。(中には世人をだまして名を盗む人もいます。だから虚構をする人もいます)。
   トレーニング方法:散打は体力活動であり、技術的な打撃にはいくつかの要素が必要です。例えば、速度、力、身体能力、瞬発力、攻撃力、距離感など。これらの方法は単一のために学びやすく、使いやすいです。動力定型のトレーニングをすれば競技に出場できます。太極拳は知的活動であり、その技撃要素が非常に多いです。例えば放松(ファンソン:リラックス)(つまり人間の本能を放棄し、ある流派では赤ちゃんのような大松大柔状態まで緩めると強調されています。)、柔化(柔らかく無力化)、走勁(相手に合わせた動きの中での無力化)、粘黏連随(力がぶつからず、離れずの状態でくっつく)、引松放(①擎:彼の体を持ち上げて彼の力を借りる(中には霊の字があります)。②引:身の前に引いて力を入れて蓄える(中に蓄字があります)。③松:力を緩めて曲げないようにする。④放:解き放つ時は腰と足の両端(中には整の字があります))引化拿発の勁、四正四隅の推手試力、乱採花、散手など、これらの方法は昔から定説があります。まず手本を見てやってみて、それを実践し、そして新しいものを作っていく過程はとても長いです。これらの技術を全面的に身につけることは、限られた人生ではほとんど実現できないと言えます。しかも、この限られた時間の太部分は太極拳とは無関係な時間で占められています。ですから、トレーニング方法から見ると、太極拳は競技運動には含まれません。太極拳を持って他のボクシング種目と試合をするのは無頓着な事です。太極拳の散手も同様です。

   競技規則:散打のルールは技術の裁定を重視します、それでもやはり結果を重視します。競技のボトムラインは反則しない事です。一方太極拳の推手や散手の規則は相手の力を利用して人を飛ばす事です。もし相手の勁を無力化し、それを外に発する事ができれば成功です。競技のボトムラインは人を傷つけない事です。人を傷つけないで技術が高ければ高いほど高い点数を得られます。逆にペナルティと判定されれば失格になります。これが両者の違いです。以上の四つの方面の問題を理解したら、再び王宗岳の『太極拳論』の散手に関する論述を解説します。言う処は理があり、根拠があるので,隔靴掻痒というほどのことはありません。

王宗岳《太极拳》注()
4、双人散手
传统,太极散手最独特,有别于其他门派的技法,王宗岳在此已得非常清楚。根据我五十多年的武术实,得太极散手与其他散手有区别,也有关,且区别多于关。关在于它都是技击术,有武的共性,是武而非体操。其区别在于训练方法、技规则、技目的和极目上差异大。下面以中国散打参照与太极拳予以比(其他技击术可类推)
①  目的和极目:散打是竞赛项,技目的主要是打点得分、最好是K0手。太极拳是锻炼项,其中的推手技只是印太极拳的技水平及太极功夫,
不是打点得分,即使有较技成分,也是通过竞技使对手在技术上感觉心服ロ服,看看近几年的推手擂台赛,其基本原则也没有离开这个目的(没有一个太极拳推手选手有把对手K0的想法,可惜规则的限制使这一目标很难实现),这从比赛中的技术发挥就可见一斑,无须多辩。
②  :从技,散打很,目的是打倒甚至K0,使手失去还击能力,那么技要求就是"简单实",即能在最短时间内掌握和熟运用最好的技,这对技者来是成本最小、收益最高的捷径。而且技动说白了就是年人的天下,所以中国武
"拳怕少壮",如果散打也以"十年不出门"时间训练,相信它很快就会萎,代人最耽不起的就是时间。太极拳却不是这样,除了技,要有人性和心性的修。技与人性和心性修相比,后者更重要和根本,反而退居其次.话说,太极拳
的技,了印和引,所以,太极拳是一子的事,越老越有价(它以太极运之理告"天理".只有年长阅历丰富才有此体会,故越老越有价)。即使是太极散手,其所追求的也不是,而是一种技的人格境界。想若追求的人格境界是把
K0,这样的境界得遭到多少人的?话说回来,太极本身就是一幅阴阳和谐图,它是把人限制在阴阳平衡的思框架内的,它所要求的就是«老子»第四十二章所言"万物阴而抱阳、冲气以"的境界。所以,太极拳在生之初,就以阴阳平衡定技术动作。首先是求柔不求、柔化刚发、克服先天本力的影响(散打是要强化先天本力);其次,太极拳要求全面的人体运及充分发挥人体的合潜能(包括内在机能,所以才要以大时间来站桩试力和推手),而且潜能了技而是了更高效地生存(养生),所以才会有八门五步、功夫境界、器械功法等内容,从而十年都不得能全部下来和掌握好;再次,由于上述目,术设计规则的出点不是输赢,而是技的高低或更高更精,当然就与拳者的天賦、勤承、悟性等要素又合起来了,些是短期内以奏效的;第四,散打以简单
勾技术经过短期训练,就可以在擂台二人搏,经过上万次的反复训练达到力定型,然后以最短的时间和最高的效率上台贏得成。而太极拳只一个八法就比散打多出近两倍的作数量,加上五行步法又翻一倍,且八法中每繁复以短期掌握(主要是要克服先天的本能和习惯性力量,话说"习惯是最").一个人在有限的有生之年想要达到散打的技水平,太极拳,就是不套路的大成拳也达不到散打运动员的效果,更何况太极拳专业的技既没有专业动员,也没有专业研究机构和研究手段的支撑。所以,当有专业动员"职业"太扱拳师时,太极拳应战基本是不堪一的。里的"职业"加引号的意思是,"职业"是指生的"职业"而非技"专业职业"(其中不乏欺世盗名、故弄玄虚之人)
③  训练方法:训练方法上看,散打是体力活,它在技上有几大要素是必须训练,:速度、力量、体能、爆力、抗打能力、距离感等。些方法因其一而易学,上手容易,经过动力定型的训练就可以上场竞技。而太极拳是智力活,其技要素众多,如放松(即放弃人体本能,有些流派甚至强要松到如儿般的大松大柔状)、柔化、走、粘黏随、擎引松放、引化拿、四正四隅推手力、乱采花、散手等等,些方法先早有定,你必先依画葫芦学会、,然后再去,程非常漫。可以,全面掌握些技,一个有限的人生来几乎很难实现,况且个有限被一大部分与太极拳无关的时间占去。所以,训练方法看,太极拳根本就不属于技运,拿太极拳与其他搏击项行比风马牛的事,即使
太极散手也是一

④  规则:散打规则注重技裁定,但主要是看,技底线是不犯。太极推手或散手规则是借力,只要能化掉方来且将其放出去即成功,技底线是不能,在不人的情况下技越高越能得高分,反之要判甚至取消格。就是区别。窃以如果理解了以上四个方面的问题,再来解王宗岳«太极拳»中的有关散手,就会言之有理、言之有据,而不至于隔靴搔痒了。