2022年3月7日月曜日

制定拳が基礎になるのか?

 よく耳にする事にまずは制定拳で太極拳の基礎を学んで伝統拳を学んでいくという事です。然し乍ら伝統拳を担うものとしての観点からはこの考えは全く当てはまりません。その証拠に伝統拳を担う方から基礎としてしっかり制定拳を学びなさいという言葉を寡聞にして聞いた事がありません。しかも伝統拳で大切にする基礎が制定拳では全くと言って良いほど抜けているという事です。制定拳を主体に考えれば伝統拳も同じ事が言えるかもしれませんが。即ち制定拳から見れば伝統拳は基礎が抜けているという事かもしれません。

では伝統拳から見てどのような基礎が抜けているかといえば下記が上げられると思います。

1)勁が無いという事です。

勁が無いという事は伝統拳から見ればもはや太極拳では無いのですが、見事に殆どの方に勁がなく踊っているようにしか見えない方が多いというのが実感です。書物を見ても簡化24式は動きの解説はあっても勁の解説を見た事がありません。従い、勁を重視していないかもしれません。

2)内気の充実が見られない。

練り方が悪いのか、内功法が無いのか、いずれにせよ内気があまりなく拳に威力がありません。ゆっくりと動く事と威力が無い事は別です。ゆっくり威力を出していって初めて太極拳と言えるでしょう。

3)太極を求めているとは思えない。

太極拳ですから当然「太極」を求めていくわけですが、「太極」を求めているとは思えない騒がしい脳内となっている事が往々にして見受けられます。これは基礎というには少しレベルが高いですが、基礎の段階から目指す必要はあると思われます。

上記の状況ですので制定拳から太極拳へ行くというルートはあり得ないと思われます。基礎が抜けているからです。反対に制定拳からみたら伝統拳も基礎が抜けていると思えるでしょう。例えば良く言われる批判は形がバラバラで規範が無いという事です。

これに対する小生の回答は伝統拳では拳理で型を押さえる事にあります。体形等も人それぞれです。それを統一した外形で押さえていく事よりも拳理で押さえる方が合理的と言えるでしょう。

しかしながら勁が無い制定拳から見れば伝統拳の言い分はなかなか理解できないでしょう。勁が出ない制定拳にどっぷり浸かった人から見れば勁自体が理解できないからです。

従い、両者の太極拳は恐らく交わる事は今後共無いというのが実感です。