2021年12月6日月曜日

上達の近道

 太極拳を学ぶ上でどうすれば早く上達できるかは皆さんが等しく関心がある事と思います。この点に関し、最近色々な人を指導する中でこうすれば速く上達するというものが見えてきましたので、ここで皆さんとシェアしたいと思います。

まず何処かで述べたかと思いますが太極拳の身体操作の感覚と套路の招式(動作)はOSとアプリの関係にあると言えます。アプリをどれだけ増やしてもOSを入れない事にはアプリはうまく動きません。このOSを入れる事を最優先にして下さいと言っています。中国ではこの事を套路を練り込みなさいと教えます。套路を練り込むと内気を伴った招式となり、勁が出、又気も出てきます。又一招一式、内的な身体感覚がこの套路を設計した人の意図通りとなってきます。この段階に達するとある程度OSを得たと言えるでしょう。例えば混元太極拳では混元球の感覚と混元球をエンジンとする纏絲勁が実感されます。このOSを得た時に初めて招式を増やしていく事が上達の近道であると考えています。小生が主宰する太極会ではまず8式を徹底的に練り、このOSを獲得します。その後13式、24式、48式と招式(アプリ)を増やしていき最終的には83式の一路にたどり着きます。最近行われた表演会で他会の先生方からも多少のお世辞はあるにせよ太極会の生徒の比較的早い進歩に対しお褒めの言葉を頂き、この方法が間違っていなかったと確信しています。

2番目に最初は套路の形をやかましく言うより意念を大きく、強く使っているかどうかを問題にする方が早く上達するという事です。日本には意念という概念がありません。この意念を使えるかどうかが上達には大きく影響してきます。というのは意至る処気至ると言われており、意念を使えば気が動くので、ワザの掛かり方が全然違ってきます。形に拘泥していると意が委縮して元々意念を使えなかったのが益々使えなくなり、形が整った後も意念が出ない事になります。私が受け継いだ陳式太極拳では套路は意で打つものと言われており、意念が極めて重要です。従い太極会では意念を使った押し合い等を練習に取り入れています。

3番目は上達の速度を早くしたいのならOSを2つ同時に入れない事が重要です。太極拳に引き直して言えば陳式と楊式を同時に習う事は進歩の速度を遅くするという事です。同じ太極拳でもOSが全く違うので身体が混乱し、どちらの身体操作を使うのか分からなくなる事態が生じます。

4番目に内功を中心に練習を行うという事です。内功を行うと早く内気が充実してくるので各招式の身体感覚が得られやすいという事です。各招式の意味を体で納得するので上達が早くなるのです。

以上が早く上達するポイントです。皆さんの上達の一助になれば幸いです。


2021年11月19日金曜日

太極拳が積極的な休息である理由

 馮志強老師は太極拳は積極的な休息と度々言われていました。その意味を以前は良く理解できていませんでした。これは運動や仕事との対比に於いて言われているものと解釈しています。例えば運動であれば体を使います。メインの作業は体を動かす事にあります。然しながら太極拳に於いては体を動かす事がメインではありません。意念を使う事がメインとなり、套路は何度も何度も練りこ結果自然と体が動く為、あまり体を使うという意識がなくなってきます。従い、静けさの中で意を用いる事がメインとなってきます。体はどうかというと放松(ファンソン)といってリラックスさせています。従い、休息と言われた状態に近いものがあります。 一方仕事はどうかというと頭を積極的に使います。然しながら太極拳の套路に於いては頭の中は静かになっており動作に集中した状態になっています。従い、頭は休息していると言えるでしょう。体も頭も休息しているので積極的な休息と言われたものと理解しています。

2021年10月2日土曜日

無極

 ある時馮志強老師と会話をしていた時に「内功をしていたら神が入って来た事がある。」と言われました。私は咄嗟にどう返していいかも分からず、ただお話をお聞きしていました。今では私の感覚では無極が極まった時に周囲の自然、宇宙と一体になる感覚があるが、ひょっとしてそれを言われていたのではと思う。馮志強老師は太極拳の老師でしたが、実は太極拳を通じて太極を追求された老師であると言えると思います。常に太極を問題にされていました。ある時に拝師の弟子が集まるミーティングがあり、なぜかその時には拝師していない私も馮志強老師に連れて行かれました。そのミーティングの主題が話される前に馮志強老師が太極を説かれていたのを覚えています。又、よく無極が大事である事も言われてしました。無極とは太極拳論に出て来ますが形而上の概念ではなく我々が修行の中で追及し体感すべきものと了解しています。ノイズを徹底して排除した無極に立てば相手を含む周りのノイズが手に取るように分かるものです。相手が行動を起こそうと意が出てくる処もよく分かるようになります。私はほんの少しばかりの体験ですが、これが極まれば更にセンサーの感度が高まるのを実感しています。この無極に至る一つが「捨己従人」と言われる言葉です。太極拳をやった事がある人は耳にした事があるでしょう。日本語に訳すと「己を捨てて相手に従う」という事です。ではこの「捨己従人」は具体的にどのように行えば良いのか。この方法が分からず無極を諦め、太極から離れていっている人が多いのではないでしょうか。その方法の一つが自我、念が出てきたら切り捨てる作業を行う事です。このように作業を進めていけばいずれ念が出てきません。又出ようとする時が分かるようになり、すぐ切り捨てる事ができるようになります。では自分を捨てきってしまえばどうなるかですが、自分を捨てて相手に従って動いているうちに相手の気と自分の気が一体化してきます。この状態で相手が押したりして来てもその力(勁)を一瞬にして無力化できます。これを太極拳では化勁と呼びます。相手の力をそらず事が化勁と思っている人が多いようですがそれも化勁と言えない事もありませんが、次元の低い化勁と言えます。この次元の低い化勁をいくら繰り返しても次元の低い化勁の中でうまくなるだけです。「捨己従人」を行ってこそ次元を上げる事ができるのです。「捨己従人」を行って常に「無極」に立ってこそ「太極」が分かります。最近では太極拳を行っていても「太極」や「無極」に関心が無い人が多いのはどうしてかと思います。「太極」や「無極」に関心が無ければ敢えて時間のかかる太極拳をやる事もないように思えるのですが。

2021年9月1日水曜日

陳発科老師の陳式太極拳は何処へ?

 以前にも書きましたが、陳発科の息子である陳照圭先生と馮志強老師との関係は兄弟のようだと聞いていましたので、その関係を馮志強老師にお聞きした事があります。そこで私は予てからの疑問の一つである陳式太極拳の内功法がどうして陳照圭老師に伝わっていないのかをお尋ねしました。そうすると馮志強老師は遠くを見るような悲しいお顔で実は陳照圭老師が最後に出張に出かけた時に、彼が戻って来た時に伝える積りだったと言われていました。1981年に陳照圭老師は陳家溝の四天王と言われている人達に陳式太極拳を教えに行かれ、その時に脳梗塞で倒れて帰らぬ人となりました。このように北京陳式の中にあっても全ての人が宗家の功法を得た訳ではありませんでした。然し乍らこの陳式太極拳の秘伝の功法は我々の中にあります。また陳発科の最後の改変となる混元太極拳も我々の中にあります。北京陳式は陳式宗家の各種功法の宝庫と言えるでしょう。勿論宗家以外に伝わっている陳式太極拳が悪いとか劣るとかを言っている訳ではありません。それぞれの発展を遂げ素晴らしい太極拳となっている事は想像に難くありません。ただ陳式太極拳を志した人達にとっては宗家の拳、功法、秘伝はやはり垂涎の的であり興味がわくものと言えるでしょう。現在では陳発科の弟子や孫弟子が北京で陳式太極拳を連綿と伝えていっています。山東省の洪均生の孫弟子も北京体育大学等で御活躍です。かかるが故に陳式宗家の太極拳のメッカと言われる北京には毎年多くの方が訪れます。

ある時洪均生かその弟子かれましたが、陳発科の逸話についてコメントされた事があります。陳発科は陳延熙の正嫡でしたが、幼少期は太極拳の練習を殆どする事なく周囲の人達は陳氏太極拳が陳発科の代で途切れてしまうと噂をしていました。ある時父が長期に出張する際に集まった人達が漏らしていたその話を陳発科は聞き、その後人の何倍もの練習をこなし、親戚の実力者を追い越していったとの事です。後にある人はどうしてそんなに強くなったのか、どのような練習をしたのかと陳発科に聞いた処、陳発科老師は「何も皆と変わった事をした訳では無い。」と答えました。 これに対し洪均生かその弟子のコメントはこの言葉はその通りに受け取るというものでは無い。多くの練習を重ねた事は事実だが、宗家にだけ伝わっているものもある。斯様に言われたとの話を聞いた事があります。

現在小生は北京陳式太極拳協会を日本で組織し、年に一回北京陳式の各老師に御参集頂いていますが、この目的は北京陳式の各種功法の棚卸に他なりません。この交流は未だ始まったばかりですが、既に興味深い事実も色々浮かび上がってきています。又現在陳照圭老師の弟子である馬虹老師の弟子の方と交流がありますが、その中で陳式太極拳の内功法をお伝えする事ができれば馮志強老師の思いも満たす事が出来るかも知れないと考えています。

2021年7月31日土曜日

勁が見える人と見えない人

 最近様々な人に太極拳を指導してきて思う事は「勁が見える人」と「勁が見えない人」がいるという事です。通常は太極勁を数年練功してきて初めて勁が見える人が多いようです。勁が見え始めると私が打つ套路を見て動きが違うと言い始めます。かくいう私も最初は勁が見えませんでした。然し乍ら練功し始めてすぐに勁が見える人もいる事が分かりました。小生の太極会では今迄3人にそのような人にあたりました。勁が見えても即座に上達する訳ではありませんが、上達の速度は速いと思われます。というのは常に自分の動きに納得がいかず自分で試行錯誤して修正し続けるからです。この勁が出ているかどうかは初心の間は非常に重要なコーナーストーンになります。小生が北京で太極拳を習い始めた頃は馮志強老師の勁が全然見えませんでした。一方張禹飛老師の勁はハッキリと見えました。当時馮志強老師の套路は暗勁で打っていたものが多く、その為勁が見えにくいというという訳です。張老師は套路を明勁で打っておられた為に勁が良く見えたという具合です。張老師は当時、馮志強老師に習った人達の多くが明勁でもなく、暗勁でもない、勁が出ていない人が多いのを苦々しく思って居られました。その為小生には楷書の混元太極拳を明勁で伝授したのでした。私が現在楷書の混元太極拳を広めているのも以上のような理由があるからです。皆さんも各招式の勁を正しく理解し、まずは明勁で套路を打つ事から始めて下さい。そうすれば上達の速度も上がるでしょう。

2021年7月2日金曜日

松(ソン)と緊(ジン)

 太極拳では放松(中国語ではファンソンと発音します。)が非常に大事と言われています。その理由は放松ができるようになると発勁が強力になり、勁が整ってくるようになるからです。然し乍ら多くの方は自分では放松が出来ていると思っていても出来ていない事が往々にしてあります。この放松を体得するのは非常に難度が高いと思われます。然し乍ら陳式太極拳(ここでは陳発科の系統の陳式太極拳の事)では套路の練り方にこのファンソンを体得する方法が埋め込まれています。それは放松と緊張を今後に繰り返す事によって放松を深めていくのです。これを松(ソン)緊(ジン)を繰り返すと言います。初心の内は体が緊張していますから、この放と緊の振れ幅が大きくありません。然し乍らこれが少しずつこの振れ幅が大きくなっていくのです。松(ソン)も深く、緊(ジン)も深くなり、最終的には素晴らしい拳となっていくのです。これは身を持って体験していますし、生徒を見ていてもその過程がよく見て取れます。一方楊式太極拳を見ていると終始放松(ファンソン)の太極拳だと見て取れます。ただ、いきなりそこに到達する事は容易ではなく、何らかの要訣があるのでしょう。さもなければずっと緊(ジン)で套路を打つ事になり、成長が見込めません。ここはその門派に入らなければ分からない処です。制定太極拳等は伝統拳のグランドマスターが居られない為これらの要訣を欠いているのではないかと推測されます。その意味ではどの太極拳でも良いので伝統拳をやる必要があるのではないでしょうか? 陳式太極拳ではこのソン、ジンに呼応するかのように開合があります。これは動作や形の開合だけではなく、意念の開合が重要な要素となってきます。このソンジンと開合が基調となって体を作り上げていく事になります。

2021年6月4日金曜日

太極拳理論の要諦

 銭育才先生が書かれた「太極拳理論の要諦」の序文に下記のような言葉があります。


若い頃、私は太極拳の道を求めていました。しかし、正しい道に入らなかった。技だけを求めてしまったのです。漠然とした套路の練習だけで極意に到達できるとは信じられなかった。はじめは推手も単なる技術と思っていました。これを求めて求めて・・・二十年を無駄にしました。違う、考え方が全然違う。だから経典に戻るしかないのです。


私も上記に全く同感です。技だけを求めると此の道に到達できない事が最近になってやっと分かってきた次第です。推手も単なる技術ではない事もようやく身に染みて分かるようになってきました。すなわち推手が要求するのはある心的状態であるという事で、それが一番大事だという事です。あくまでこの拳は太極を追求するように出来ているというのが最近の実感です。この太極拳が自分の求めている拳ではないと途中で脱落する人、離脱する人の多くは技(ワザ)だけを求めている人のような気がします。逆に太極拳が我々に求めているものが見えていないと思えます。太極拳は我々にとてつもない心的状態を求めており、拳技の向上はその状態を抜きにしては考えられないという事です。又強くなる為に太極拳に入ったにも係わらず、その心的状態を持ち続けていると他者と争う、競う気持ちがなくなるというアイロニーにも陥って行くのです。それは無極の深さを体現した時に出て来る他者との一体感でもあるのです。馮志強老師は常々無極の重要さを語られていました。昔、それを聞いた時には聞き流していましたが、今更ながらその重要性に気づかされますし、そこに師恩を感じ感謝しかありません。


2021年5月2日日曜日

内部の表演会

 この1年はコロナに振り回された1年でした。毎年功夫会という表演会を秋に開く為、太極会の会員さんは表演を行う機会があるのですが、この1年はそのような機会がなかった為に教室毎に表演をして貰い、ビデオに収めて、それを皆で鑑賞するという形を取りました。そうすると同じ套路をやっている他の教室の人も見る事ができ、非常に勉強になるからです。この企画はまずまず好評でしたが、多くの人から寄せられた意見は自分の套路は見るに堪えないという事でした。要は自分が套路を打っている時に頭の中で描いている自身の姿とビデオで見た自身の姿の差があまりに大きく愕然とするとの事でした。この感想は初心者には特に多く頂きました。恐らく次第に熟練してくると自分が思い描いている姿に近づいてくるものと思われます。それでも自分の動画を見るのはいつになっても嫌なものです。不思議なもので動画にすれば自分の欠点がいつも大写しで出て来るのです。従い、自分の欠点を知るのには良いのですが、とても人に見せられるものではありません。又、師匠の生前の套路が頭に焼き付いているので、それとの差も認識させられるという問題もあります。さわさりながら私の場合は普及の事を考え最小限の動画は出していますが、自分が上手いので見て下さいという気にはなれません。自分の動画が良いと思って露出している人は大したものだと素直に感心してしまいます。最近もある大会で表演する機会に恵まれ表演しましたが、自分が思っているよりも功夫が無い事を気づかされました。この1年でなんとか自分で自信を持って動画を出せるようになりたいものです。

2021年4月2日金曜日

北京陳式で推手大会が無い理由

 北京陳式では練習方法としての推手は日頃から行っており、又北京陳式の大会等もありますが実は推手大会がありません。推手大会が無い理由を小生なりに考察してみました。 推手は元々聴勁を養う為に行われるものです。従い、聴勁が出来て相手に勝ったのかどうかが重要になります。聴勁の感度を上げるにはどうしてもこちらから意を出さない事が重要になってきます。こちらが意を出さない状態で脳内が静かになっていると相手の勁が良く感じられるようになってきます。又意がでると気も出るので相手とは調和する事が難しくなります。調和ができないと感度が落ちてきます。意が出ない状態だと気が出ずに相手と気が反発しあう事は無くなります。気が反発しあう事がなくなると調和ができるようになります。調和ができると相手の勁を聴く事が格段にやさしくなります。さてこの状態をいかに作り上げていくかが重要になると思いますが、競技となった場合どうしても意が出やすくなり調和が取りにくくなります。まさに求めている状態と反対の状態になりやすいというのが正直な感想です。競技は勝敗を決める場です。一方推手は本来勝敗を決める必要の無い場で、自分の静けさをキープしていればそれで良いのです。その静けさの深さを掘り下げていく場が推手です。このようにして考えると北京陳式では推手の練習はするものの競技としての推手が無いのも一理あると思われます。だからと言って競技推手が悪いと言っている訳ではありません。そのような競技の状況でも静けさをキープできれば問題はありません。ただ一般には競技の勝敗に拘ると本来の目的から外れてしまうので、そこを懸念して北京陳式では競技にしなかったのではと推測されます。


2021年3月1日月曜日

明勁、暗勁、霊勁

 今回は明勁、暗勁、霊勁の話をしたいと思います。
太極拳にはこの3種の勁があります。明勁から説明すると丹田の力が手先、足先に伝わったもので筋力を力に使わず、筋力を力を伝達する道具として使うものです。中途半端に筋力を力の源泉として使うと丹田のちからと同調せず、この力を受ける者も非常にごつごつした違和感を感じます。

次に暗勁ですが、丹田の力というよりかなりの部分が気の力を使うというものです。従い、触れている部分の摩擦が殆どなく相手を崩す事ができるものです。太極拳も中級になってくると暗勁を使い始めますが、この時太極拳で言う処の「用意、不用力」となっています。意念で気を動かすので意は使うのですが、通常の力は使わない事になります。

最後に霊勁です。完全に意だけを使い相手に触れずして相手を動かす事ができます。これを使えるには自分を捨てて相手と一体になる事が必要です。結局これは相手の気を使っているのです。元々相手の気と自分の気は区別がありません。区別をしているのは自我です。自我を捨て相手と一体になれば相手の気も自分の気の如く使えるのです。一見不思議に見える霊勁はそのような作用をしているだけです。

2021年2月1日月曜日

北京陳式太極拳の楽しみ方

 以前どこかで書いたと思いますが、馮志強老師はこの陳式心意混元太極拳は自分が創ったものでなく、陳発科老師が創ったものだと仰いました。陳式太極拳の套路を7か所変えたのは陳発科老師で自分は陳発科老師の指示に基づき他の箇所を7か所変えて創ったと言われました。陳発科老師が徐々に陳式太極拳を改良され、改良される度に馮志強老師にお伝えしたそうです。ある時馮志強老師は改良される前の套路を練っていた処、陳発科老師に後戻りする必要は無いと叱られたと言われました。それ以降馮志強老師は自分で練る時はこの改良された套路を練ったそうです。但し、対外的には従前の套路で表演等されていたそうです。発科老師の指示に基づいてその他の7か所を改良した後、世に出したと言われています。従い、陳発科の弟子は従来の北京陳式の套路を教えられた人はそれを練り、陳式心意混元太極拳を授けられた人はそれを練る事になります。その他の地域で伝えられている陳式太極拳の套路を練る事はありません。套路以外では陳発科老師から伝えられた各種功法を練る事になります(これら功法は拝師の弟子にしか伝わっていません)。そうするとどういう事になるかと言えば徐々に陳発科老師、馮志強老師のフィロソフィや身体感覚を追体験するようになってきます。陳式に関する套路を全て練った場合がどうなるかは分かりませんが、逆に一人の宗家の套路を練り込むとその人に考え方も姿を現してきます。これが北京陳式太極拳の面白い処と言えるでしょう。身体を通して宗家の考え方が分かるのは何とも面白い事ではないでしょうか? 太極拳を通じ太極の理を学ぶ事も大きな楽しみであると同時にそれを体現された宗家の考え方が伝わってくるというのは1つ食べて2度美味しいという感じです。この感覚は多くの人に味わって貰いたいと考えています。