2022年10月4日火曜日

混元太極拳に関する張禹飛老師論文 その2

 なぜ「混元太極拳」は太極拳の元来の練習方法を回復したと言われるのか

                     張禹飛

太極拳の大家、馮志強先生が創始した「陳式心意混元太極拳」(以下、混元太極)は、道教の内丹功を基礎に、陳式太極纏絲内功と心意六合の内功を母体とし、科学的で完全な「混元太極拳」の練功システムを確立しています。その拳と功(内功)は一体であり、身体の内と外を共に求め(身体の内なる内功を練りつつ、外の拳も練る)、性と命を共に修め、形を練る事で道に適う練習です。これは太極拳の歴史におけるもう一つの一里塚であり、後世に貴重な精神的な宝物を残したといえる。 私は「混元太極拳」の真骨頂は本来の修練を取り戻し、本来の面目を回復している事にあると思います。 私は長年(馮志強)老師に付き従って、混元太極拳を追いかけてきて、混元太極拳に関する見識や体得を蓄積してきましたので、それを皆さんと一緒に「混元太極拳」の一部を拳友諸氏と共有し、レンガを投げて玉を引く(拙い意見を述べて、貴重な意見を引き出す)事により自分を慰めたいと思います。 私は学も浅く、理解力も鈍いので、必ずしも「混元太極拳」の深遠な奥義を理解できていないので、きっと多くの点を見落とし、本質を外し枝葉末節に走ってしまったと思いますので、良識のある方々のご助言をお願いします。 この論文では、5つの側面について詳しく説明したいと思います。

1.「混元太極拳」は伝統文化の精髄を継承している。

2.「混元太極拳」は、伝統文化の偉大な「大道」を継承している。

3.「混元太極拳」は古典太極拳の練習方法の真髄を回復している。

4.「混元太極拳」は、中国武術の技撃の魂を維持しています。

5.「混元太極拳」科学的な練習体系を確立しています。


  1. 「混元太極拳」は伝統文化の精髄を受け継ぐ

「太極」は中国古来の哲学的概念である。 宇宙の起源という意味を持っています。 文字の歴史が証明しているように「太極」という言葉は、《周易·系辞》に始まる。即ち「易に太極あり、両儀を生ず」「一陰一陽を道となす」と示されている。 この文脈での "有 "は、"~から来た"と訳すことができる。 "易は太極を持つ "とは、易経が太極から来たものであることを意味します。『易緯・乾鑿度』によると、「易は太極に始まり、太極は分かれて二となる。」という。これが陰陽です。周易は占いの筮書であり、占いは未来を予測することであることを知っている。周易は占術書であり、占術とは未来を予測することであることが分かっている。太極の道は時間的に言えば、過去、現在、未来は太極の理に由来している。つまり、太極は天地万物の存在の道理である。 荘子-大師曰く、「道....は太極の先にあって高さを為さず、六極の下にあって深さを為さず、先天的に生まれて久しく為さず。上古に長けて老いを為さず この場合、六極は天地四方の意味と上下限を指し、太極は最大限を指す。 以上のように、広義の太極とは、四方や上下、時間や空間における宇宙の営み、万物の存在や変化を知らせる「道」を指し、狭義の太極は、古代中国の哲学者や書記の間で、次のようないくつかの意味を持つことが分かっている。 狭義の太極は、古代中国の哲学者や経済学者間で、「生命エネルギー(元気)」の意味での太極(『漢書・律暦志』、漢-鄭玄・王充、唐-孔英達、宋-張作、清-王夫子)、「図」、「神」で「太極」を解釈する(宋・陳と周敦頤)、「道」、「心」で「太極」を解釈する(宋・邵雍)、「太極」を「理」で表現する(宋・朱熹と二程)です。①

「混元太極」の修業思想はまさに以上の古人の太極の「理」と太極の「道」に基づいている。だから馮師は自分の練功(稽古)の思想を次のように述べた:「稽古は静寂の時を待つべし、静寂なくして動の妙を見ず。」、“拳を稽古するのは無極から始め、陰陽開合を真剣に求めます”。これらはすべて太極の理に基づいている。この思想は中華上古時代に形成された太極文化の最良の継承である。この道理に基づいて、太極拳を練習すれば経絡は疎通し、体を丈夫にし、体内エネルギーを強くし、寿命を延ばすという目的を達成することができるのです。

「混元太極」は「太極の理」に基づいているだけでなく、特に「混元」の意味を強調している。混元とは何か?

「混元」という言葉を考察してみよう。宋・張君房が集めた道家の典籍『云笈七签(雲笈七簽)』(巻二)に、「混元は、混沌の前の生命エネルギーの始まりを表す言葉である。」とあります。

②ここでいう「混元」とは、生命エネルギーの状態の始まりのことであり、宇宙と人体の両方を指すことができる。 この世の万物は、内なる空と外なる無で成り立つ混沌であり、混沌の前に元気(元のエネルギー)があり、このエネルギーによる感覚(精感)が真の一体感を生み、気の調和が元気(元のエネルギー)を生むのです。気の動きは天と地を確立し、万物を変容させます。

我が国の古代気功の典籍『性命圭旨』は曰わく、「夫天地の太極、一息斯析、真宰自判、交映羅列、万霊粛護、陰陽判分、是太極、是『一生二』也、曰虚皇。陰陽既判、天地位焉、人は育焉、是『二生三』也、是曰混元」。これを意訳すると「宇宙の最初の頃、混沌一気が分かれ陰陽が判然とする。これを太極という。所謂一が二となる。陰陽二気ができ、天と地が形成され、人間が育つようになる。所謂二が三となる。これを混元という。」

③この話の意味は、天地の気はもともと茫漠として果てしなく、混沌としていて、霊気を含めて玄妙で、これは太乙で、これを「無始」と呼ぶ。天地が始まった当初、元気は絶えず流れて鼓動し、虚空の境は急に開いたり閉じたりして、陰陽の二気は互いに感応して、白黒の二色は互いに融合して凝集して、“ある”と“ない”は互いに追いかけて求めて、混沌とした光景を呈して、希薄で虚静で神聖が極まり、ぼんやりしている中で中正の準則を確立している、これが「太易」で、“元始”と称します。天地の太極は混沌の気が陰陽二気に分かれた後、清らかな気が陽となって天に上昇し、濁った気が陰となって地に下降し、天地陰陽が二つに分離した処、つまり太極であり、これを「虚皇」と呼ぶ。陰陽二気が分離した後、天地はそれぞれその所を安んじ、人ができて、これは「二生三」と呼ばれ、これを又「混元」と呼称する。

『易緯・乾坤鑿度』によると、「太易あり、太初あり、太始あり、太素あり」、「太易はあまりにも変わりやすく、民に教えて倦まない。太初の後に太̪始があり、太始の後に太素がある。万物は質があり、質は混元から離れていない」。

④以上の「混元」という言い方を総合すると、昔の人が「混元」を指していたのは、宇宙や人体の中の陰陽混沌の気を指していた。宇宙間のいかなるものにも、その特定の「混元」の「道」がある。

『性命圭旨』(亨集)の中で、道家の丹功の角度から、「混元」、「太極」の意味に対して別の一節は次のように述べている:「両親は想いが交わる時、円いだけ、先天の少しの霊光をきらきらと光らせ、母胞にぶつかって、このように○だけである。儒教ではこれを「仁」と呼び、「無極」とも言う。仏教ではこれを「珠」と言い、「円明」とも言う。道教ではこれを「丹」と呼び、「霊光」とも言う。すべてこの先天的な一気、混元から精までを指す。身体の源であり、生命の始まりであり、生命の基盤であり、すべての変容の祖先である。 ......身体の原点は太極から発しているのである。 これは、人体における「混元」の意味について、最も早く記述されたものである。 生命形成の初期における生来の気の陰陽の混在の先天の気を指す。

そのため、太極拳を「混元」という言葉で要約することは、中国古代道家内丹功の精華と核心を受け継いだことを意味する。固爾は、「混元太極」の名で太極拳を命名したが、実際には太極拳の本来の姿と本来の訓練法を回復するための要所であり、「盛名の下で、ついにその実を発揮した」と言える。なぜならそれはまず「拳を練るにはまずその理を明らかにすべき」という「理」の所在が、数千年にわたる中華文明の伝統文化の蓄積である事を我々に教えてくれたからです。次に、この「理」の所在は、宇宙と人体の自然成化の「道」に合致し、万事万物がそうであることを説明する。西洋文化でさえこの「道」を避けることはできない。近代西洋哲学の巨匠カントが提案した宇宙形成の「原始星雲仮説」は、中国古代太極の「理」とは異曲同工(酷似している)なる妙がある。⑤

だから「混元太極」の理論⑥は中国の伝統文化を理論の源とし、それによって、内在的な広く奥深い理の基礎を持っている。


[原文]

 为什么说“混元太极”恢复了太极拳的原本练法

                     张   禹   飞(一清道人)

由一代太极拳宗师冯志强先生创立的“陈式心意混元太极拳“(以下简称“混元太极”)以道家内丹功为基,以陈式太极缠丝内功和心意六合内功为本,以陈式太极拳和心意六合拳为母,建立了科学的、完整的“混元太极”练功体系。它拳功一体,内外双求,性命双修,练形合道。是太极拳发展史上的又一个里程碑,为后世留下了宝贵的精神财富。我认为“混元太极”的精华就在于它恢复了太极拳的原本炼法,还太极拳以本来面目。自己跟随先生习“混元太极”多年,对混元太极之体悟积累了一点心得体会,今借《混元太极》一角与诸位拳友交流,抛砖引玉,聊以自慰。因本人才疏学浅、悟性迂钝,不一定能深刻领会“混元太极”的博大精深涵义,定有挂一漏万、舍本逐末之处,望有道之士不吝赐教是幸。本文从五个方面予以阐述:

1、“混元太极”继承了传统文化之精髓 ;

     2、“混元太极”弘扬了传统文化之大“道”;

3、“混元太极”恢复了古典太极拳的练法精髓 ;

4、“混元太极”保持了中华武术的技击灵魂 ;

5、“混元太极”建立了一个科学的练功体系 ;

一、“混元太极”继承了传统文化之精髓:
    “太极”是中国古代的哲学概念。涵有宇宙本源之义。自有文字记载史考证,“太极”一词始于《周易·系辞》:“易有太极,是生两仪”、“一阴一阳之为道”。此处之“”,可译为“出自于”。“易有太极”就是易经出自于太极。《易纬· 乾凿度》曰:“易始于太极,太极分而为二”。这就是阴阳。我们知道,周易是一部占卜的筮书,占卜就是预测未来,可见,太极之道从时间上说,过去、现在、未来是源于太极之理的。以此言之,太极就是一种天地万物存在的道。《庄子·大宗师》曰:“夫道……太极之先而不为高,在六极之下而不为深,先天地生而不为久。长于上古而不为老。”。此处,六极则是指天、地四方和上下极限之义,太极则是指最大的极限。由上可见,广义的太极,指总括四方上下、涵盖宇宙时空的运行之“道”以及推究万物存在及变化之“理”;而狭义的太极,在中国古代哲学家、经学家那里有几种指称涵义,如:以“元气”释太极《汉书·律历志》;汉·郑玄与王充;唐·孔颖达;宋·张载;清·王夫之);以“”、“”释“太极”( 宋·陈抟与周敦颐);以“”、“释“太极”(宋·邵雍);以“”释“太极”(宋·朱熹与二程)。

    “混元太极”的练功思想正是依据了以上古人的太极之“”与太极之“”。所以冯师阐述了自己的练功思想:“练功须待入静时,不静不见动之奇”、“练拳须从无极始,阴阳开合认真求”。此皆据于太极之理。这一思想是对中华上古时代形成的太极文化的最好继承。依此理,就可达到练太极拳疏通经络、强身健体、内劲浑厚、益寿延年的目的。

“混元太极”不仅依据了“太极之理”,而且特别突出强调“混元”之义。然何谓混元?

考“混元”一词,宋·张君房所辑道家典籍《云笈七签》(卷二)曰:“混元者,记事于混沌之前,元气之始也。”此处“混元”之义,是指元气的开始状态,既可指宇宙,也可指人身。对世间诸事物而言,内混沌混沌之前为混元,精感生真一,和气生混元,气运立天地,化施通万物。

我国古代气功典籍《性命圭旨》曰:“夫天地之太极,一气斯析,真宰自判,交映罗列,万灵肃护,阴阳判分,是为太极,是为‘一生二’也,是曰虚皇。阴阳既判,天地位焉,人乃育焉,是为‘二生三’也,是曰混元”。这段话的意思是说:天地之气原本是茫茫无际、混沌莫测的,包含灵气而又玄妙至极,这就是太乙,称之为“无始”。天地开始之初,元气不断地流动鼓荡,虚空之境忽开忽合,阴阳二气互相感应,黑白二色互相融合凝聚,“有”与“无”互相追逐求取,呈现一派混沌景象,冲淡虚静又神圣至极,在恍惚之中确立了中正的准则,这就是太易,称之为“元始”。天地之太极在混沌之气判分为阴阳二气后,清气为阳上升为天,浊气为阴下降为地,天地阴阳两离分,就是太极,称之为“虚皇”。阴阳二气分离之后,天地各安其所,就有了人,这叫“二生三”, 故称之为“混元”。

   《易纬·乾坤凿度》曰:“有太易,有太初,有太始,有太素也”;“太易变,教民不倦;太初而后有太始太始而后有太素;万物,素质者也;质素未离混元”。综合以上“混元”之说法,即古人所指“混元”,乃是指宇宙或人体中的阴阳混沌之气。宇宙间的任一事物,都有其特定的“混元”之“”。

在《性命圭旨》(亨集)中,从道家丹功的角度,对“混元”、“太极”之义另有一段描述如下:“父母一念将媾之际,而圆陀陀,光烁烁先天一点灵光,撞于母胞,如此而已。谓之“”,亦曰“无极”; 谓之“”,亦曰“圆明”; 谓之“”,亦曰“灵光”。皆指此先天一气,混元至精而言。实生身之源,受气之初,性命之基,万化之祖也 …… 究竟生身本原,皆从太极中那一些儿发出来耳”。这是最早对人体“混元”之义的描述。它是指生命形成之初始的阴阳混合先天之气而言的。

因此,用“混元”一词来概括太极拳,又意味着继承了中国古代道家内丹功的精华及核心。固尔,以“混元太极”之名来命名太极拳,实是恢复太极拳本来面目和原本练法的至要所在,可谓“盛名之下,终赋其实”。因为它首先告诉了我们:“练拳须明理”的“”之所在,是几千年中华文明的传统文化积淀。其次说明,该“”之所在,乃是指符合宇宙与人体的自然成化之“”,万事万物皆如此。就连西方文化也不能避开此“”。近代西方哲学大师康德提出的宇宙形成的“原始星云假说”,与中国古代太极之“”颇有异曲同工之妙。

所以“混元太极”的理论 是以中国传统文化作为理论渊源的源头,从而,就具有了内在的博大精深之理的根基。



2022年9月1日木曜日

混元太極拳に関する張禹飛老師論文 その1

 1998年12月に書かれた張禹飛老師の論文をホームページに掲載しているが、中文なので誰も見ないと思い。これから少しずつ日本語訳を上げていきたいと考えています。

なぜ「混元太極拳」は太極拳の元来の練習方法を回復したと言われるのか

                     張禹飛

太極拳の大家、馮志強先生が創始した「陳式心意混元太極拳」(以下、混元太極)は、道教の内丹功を基礎に、陳式太極纏絲内功と心意六合の内功を母体とし、科学的で完全な「混元太極拳」の練功システムを確立しています。その拳と功(内功)は一体であり、身体の内と外を共に求め(身体の内なる内功を練りつつ、外の拳も練る)、性と命を共に修め、形を練る事で道に適う練習です。これは太極拳の歴史におけるもう一つの一里塚であり、後世に貴重な精神的な宝物を残したといえる。 私は「混元太極拳」の真骨頂は本来の修練を取り戻し、本来の面目を回復している事にあると思います。 私は長年(馮志強)老師に付き従って、混元太極拳を追いかけてきて、混元太極拳に関する見識や体得を蓄積してきましたので、それを皆さんと一緒に「混元太極拳」の一部を拳友諸氏と共有し、レンガを投げて玉を引く(拙い意見を述べて、貴重な意見を引き出す)事により自分を慰めたいと思います。 私は学も浅く、理解力も鈍いので、必ずしも「混元太極拳」の深遠な奥義を理解できていないので、きっと多くの点を見落とし、本質を外し枝葉末節に走ってしまったと思いますので、良識のある方々のご助言をお願いします。 この論文では、5つの側面について詳しく説明したいと思います。

1.「混元太極拳」は伝統文化の精髄を継承している。       

2.「混元太極拳」は、伝統文化の偉大な「道」を継承している。

3.「混元太極拳」は古典太極拳の練習方法の真髄を回復している。

4.「混元太極拳」は、中国武術の技撃の魂を維持しています。

5.「混元太極拳」科学的な練習体系を確立しています。

 

I.  「混元太極拳」は伝統文化の精髄を受け継ぐ

:「太極」は中国古来の哲学的概念である。 宇宙の起源という意味を持っています。 文字の歴史が証明しているように「太極」という言葉は、《周易·系辞》に始まる。即ち「易に太極あり、両儀を生ず」「一陰一陽を道となす」と示されている。 この文脈での " "は、"~から来た"と訳すことができる。 "易は太極を持つ "とは、易経が太極から来たものであることを意味します。『易緯・乾鑿度』によると、「易は太極に始まり、太極は分かれて二となる。」という。これが陰陽です。周易は占いの筮書であり、占いは未来を予測することであることを知っている。周易は占術書であり、占術とは未来を予測することであることが分かっている。太極の道は時間的に言えば、過去、現在、未来は太極の理に由来している。つまり、太極は天地万物の存在の道理である。 荘子-大師曰く、「道....は太極の先にあって高さを為さず、六極の下にあって深さを為さず、先天的に生まれて久しく為さず。上古に長けて老いを為さず この場合、六極は天地四方の意味と上下限を指し、太極は最大限を指す。 以上のように、広義の太極とは、四方や上下、時間や空間における宇宙の営み、万物の存在や変化を知らせる「道」を指し、狭義の太極は、古代中国の哲学者や書記の間で、次のようないくつかの意味を持つことが分かっている。 狭義の太極は、古代中国の哲学者や経済学者間で、「生命エネルギー(元気)」の意味での太極(『漢書・律暦志』、漢-鄭玄・王充、唐-孔英達、宋-張作、清-王夫子)、「図」、「神」で「太極」を解釈する(宋・陳と周敦頤)、「道」、「心」で「太極」を解釈する(宋・邵雍)、「太極」を「理」で表現する(宋・朱熹と二程)です。


2022年8月9日火曜日

意が先行する套路

 意が先行する套路というのも変な話ですが、太極拳はそもそも意を用いて力を用いないと言われており、意で套路を打つのが当たり前なのです。ところが日本では意で套路を打つ事が当たり前になっていない事が大きな問題と言えるでしょう。そもそも意念という概念が日本にはありません。従い必然的に套路を意念で打つ事なく単なる運動になってしまっている訳です。もう一つの原因は制定拳にあると言えるでしょう。制定拳は動作の角度等を煩く言う人は多いみたいですが、意で打つ事をやかましく言う人があまりいないと聞いています。あまり意念を重視していないものと推察されます。違っていればごめんなさい。
套路は意が先行し、それに従って氣が動き、最後に体が動くように打つ事が重要です。太極会ではこれを達成する為にまず指で人を動かす事を練習しています。指だけで意を用い、相手を動かす練習です。これが出来るようになれば意で套路を打つ意味も分かるし、又できるようにもなります。そうすれば氣が全身を駆け巡り健康体を作り出す一助にもなります。太極拳の健身効果が単なる運動から来るものではなく、一つには氣を全身に巡らす事によってもたらされるものだと分かります。馮志強老師は晩年椅子に座って套路を打たれており、そう私にも仰っていましたが、要は意で套路を打っていたのです。


2022年6月5日日曜日

「散」と「精」

 気功や太極拳を打つ時は「散」になってはいけないと言われている。「散」とは意識が拡散した状態です。「散」で気功・太極拳を打つと意識が凝縮されていないので氣が思ったほど動かないという現象になります。要は内功(気功)にしても太極拳にしても意念で氣を導いていくので、意念は鋭く凝縮している必要があります。この状態を「精」と言います。身体がファンソン(リラックスして膨張しているような状態)となる必要がありますが意念(強い意識)は鋭く、強くなる事が基本です。これが套路を打つ際には一番大事な事ですが日本で太極拳をやって居られる人が一番欠けているのもこの「精」の状態です。そもそも意念という概念が日本に無い事が根本原因だと思われます。本来意念で氣を導き内功の一環として套路を打つべき処を単なる運動に貶めているのが多く見られる弊害です。このような套路の打ち方を馮志強老師は労働と言われていました。この労働を早く脱すれば太極拳はみるみる上達していきます。皆さんもこの事に注意、注力される事をお勧めします。

2022年4月30日土曜日

内功とその深化

 ある時馮志強老師との雑談の中で、内功をしていたら神が入ってきたと言われた事があります。この事を小生の体験を踏まえ話してみたいと思います。内功(武術の気功)の際に特に站椿功(静かに立ち雑念を退けた状態)の際に無極の状態(雑念が無い状態)が続くと外界と身体の区別がつかなくなり溶けていって意識のみがはっきりとした状態になる。その時に外界の気が身体の中にサーと入ってくるようになる。恐らく今までは自我が外の気を撥ね退けていたと思われるが、自我が落ちた時に外の気が大量に入ってくる。この事を指していると理解できる。この状態では気が自由に身体の外と内を出入りし始める。そうなると自分は遍く遍在する氣と一体になり、自分はここに在るが同時にそこら中に偏在しているという2つの状態が同時に成り立っている。この状態の時に人が前に立てば自分は遍く遍在しているのでその人の後ろから気でその人を押す事もできるし、横から押す事も可能になる。これは私がそう思っただけでそうなるのです。太極拳でよくある内気を使っているのではなく、外気を使って人を動かす事が可能になります。皆さんも遊びがてら試して下さい。さてこれで組手をするとどうなるかですが、通常組手の際に意識は前に行っています。然し乍らこの状態では前にいかず意識が偏在しています。従い、相手の後ろや横から崩す事が可能になります。少し崩せば相手はいつくのでこちらの攻撃が容易になるという事です。

2022年4月1日金曜日

攻防の要諦

 太極拳の散手(組手)に於ける攻防の要諦は何かと問われれば

①2人での攻防も2人で1人の感覚で組手を行う事に尽きると思われます。

2人で1人とは太極拳で良く言われる「捨己従人」です。自分を捨てて、相手に従う、又は相手を受け入れる感覚になるという事です。この時何が起こるかという事ですが、2人の気が一体化されます。気が一体化されると相手の動作が自分の事のように分かってきます。この状態で相手と対すれば相手の動きが起こる前から相手の次の動作が分かるようになってきます。この相手の動きがないが、その機がある状態を「太極」と言います。要は太極をはっきり把握する事です。そうすれば相手の攻撃が容易にかわせたり受けたりできるようになってきます。又相手が突いたり、蹴ったりしてきても、それをこちらの手で受けいれるようにして受ければあまり触れずに相手の手が逸れていきます。あくまで敵対せず自分を捨てて相手も受け入れるようにする事が肝要です。こういう感覚で組手を続ければ次第に太極拳の組手が完成されてきます。

②自分を捨てて相手に従う状態となれば「聴勁」が磨かれてきます。聴勁とは対象を設けて聴くのではなく対象と一体となって聴くのです。この聴勁は無極を深める事と「捨己従人」によってレベルを上げる事ができます。無極の状態は必ず自分を捨てる状態となっています。この無極がいかに深いかが勝負の分かれ目です。無極が深ければ深いほど聴勁の感度は上がってきます。これが次の迅速な対応に結びつくという訳です。

上記は言うは易く行いは難しです。要は練り込んでいくしかないでしょう。

2022年3月7日月曜日

制定拳が基礎になるのか?

 よく耳にする事にまずは制定拳で太極拳の基礎を学んで伝統拳を学んでいくという事です。然し乍ら伝統拳を担うものとしての観点からはこの考えは全く当てはまりません。その証拠に伝統拳を担う方から基礎としてしっかり制定拳を学びなさいという言葉を寡聞にして聞いた事がありません。しかも伝統拳で大切にする基礎が制定拳では全くと言って良いほど抜けているという事です。制定拳を主体に考えれば伝統拳も同じ事が言えるかもしれませんが。即ち制定拳から見れば伝統拳は基礎が抜けているという事かもしれません。

では伝統拳から見てどのような基礎が抜けているかといえば下記が上げられると思います。

1)勁が無いという事です。

勁が無いという事は伝統拳から見ればもはや太極拳では無いのですが、見事に殆どの方に勁がなく踊っているようにしか見えない方が多いというのが実感です。書物を見ても簡化24式は動きの解説はあっても勁の解説を見た事がありません。従い、勁を重視していないかもしれません。

2)内気の充実が見られない。

練り方が悪いのか、内功法が無いのか、いずれにせよ内気があまりなく拳に威力がありません。ゆっくりと動く事と威力が無い事は別です。ゆっくり威力を出していって初めて太極拳と言えるでしょう。

3)太極を求めているとは思えない。

太極拳ですから当然「太極」を求めていくわけですが、「太極」を求めているとは思えない騒がしい脳内となっている事が往々にして見受けられます。これは基礎というには少しレベルが高いですが、基礎の段階から目指す必要はあると思われます。

上記の状況ですので制定拳から太極拳へ行くというルートはあり得ないと思われます。基礎が抜けているからです。反対に制定拳からみたら伝統拳も基礎が抜けていると思えるでしょう。例えば良く言われる批判は形がバラバラで規範が無いという事です。

これに対する小生の回答は伝統拳では拳理で型を押さえる事にあります。体形等も人それぞれです。それを統一した外形で押さえていく事よりも拳理で押さえる方が合理的と言えるでしょう。

しかしながら勁が無い制定拳から見れば伝統拳の言い分はなかなか理解できないでしょう。勁が出ない制定拳にどっぷり浸かった人から見れば勁自体が理解できないからです。

従い、両者の太極拳は恐らく交わる事は今後共無いというのが実感です。



2022年2月2日水曜日

無極桩(站桩/zhan zhuang)

 無極桩(むきょくしょう)別名「站椿功」には流派によって色々なやり方があると思います。無極桩は丹田に内気を養う築基の気功ですが、まずその外見上の形は命門が外に突出する事が肝要です。これを気功では命門が開くと言います。まず初心者や門外漢の人に向けて説明すると命門は気功のツボで位置としては丁度お臍の反対側に当たります。ここが開けば命門が後ろにやや突出する形となります。多くの太極拳では背中側が真っすぐになると教えている処が多いように思います。然し乍ら気功に於いては命門が開いている事が重要であるの事は比較的良く知られている事実です。套路(型)は気功として打つ(套路を行う事を打つと言います)ので命門が突出するわけです。このような命門に対する要求以外の要点を以下述べてみます。

①意識は丹田に集中します。これを「看着丹田,听着丹田,想着丹田」と言い丹田を看る、聴く、想う事になります。こうして丹田に意識を集中すれば気が丹田に集まります。意識が至る処気が至ると言われており、どの場所であれ意識が至れば気が至るのですが、丹田が体の他の部位と違うのは気が一旦集まれば逃げないという事です。従い、丹田は気の海、気海と呼ばれています。このような事を発見した昔の人達は素晴らしいですね。

②意識が丹田に集中すると頭が下がる傾向にあります。従い、顔を起こし、顎を引き真っすぐ前を見ます。その際に意識も前方の一点に飛ばします。

③その後意識を眉間から体の中に入れ、目を閉じます。中に入れた意識は丹田に落とします。

④その後ゆっくりと目を開け、2-3メートル先の地面が視界に入るまで目を開けます。この時に意識は外に出さずに前の地面も見る事はしません。見えている状態にしておくのみです。意識は丹田に集中します。

以上が無極桩(むきょくしょう)の概要です。



2022年1月2日日曜日

内功と功夫

 一般の人には馴染みの無い「内功」と「功夫(こんふ)」について述べてみたいと思います。一般に功夫と言えば修練による力や際立った技(わざ)を指しますが、太極拳で功夫と言えば多くの場合内気(ないき)による力を指します。この内気を一般の方はよく御存知無いと思いますが、内功を積めば増大する内なる気というのが適当かと思います。そんな事があるのかと思われる方も多いと思いますが実際に内功を積めば内なる気が充実してくるので自分で実感できます。又内なる気が大きい人に触れればその力の大きさが伝わってきますし、筋力の力とは違った質感があります。この内気が大きく、必然的に力が強い人を功夫の高い人と太極拳では呼ばれています。この内気を高め、功夫を上げる方法の一つが内功法です。実は套路を練ってもその練り方次第では内気を高め、功夫を上げる事は可能です。然し乍ら陳式太極拳の宗家に伝わる内功法は単に内気を高めるだけでなく、健康にも寄与するとも言われてきました。というのも、そもそも太極拳は自分を守る武術なので、暴力、病、等の様々な外敵に対処できるよう作られているからです。更に混元太極拳ではその陳式の秘伝の内功法に心意拳の内功法もプラスしていますのでその効果は計り知れないものがあります。疑われる方は是非一度体験して下さい。お待ちしております。