2020年9月2日水曜日

気の反発に関する考察

最近教室ではお互いを好きになるように訓練して欲しいと生徒の皆さんに要望しています。又教室長は皆さんから好かれているかを問題にしています。これに関してはいくつかの話、経験が下地になっているのでここでその話をしたいと思います。
まず初めにある合気道か古武術の名人が教室の練習で生徒さんをころころと転がす動画があり、中々大したものだなあと感心してみていました。その方が他流との試合をする動画があり、見ているとワンパンチで倒されてしまったのです。でその動画を良くみていると件の名人は他流試合ではかなり構えており、気が前に出ているようにみえました。我々も教室では相手を気で動かす練習をしますが、気が出てしまってはワザは掛かりにくいものです。気に好悪はありませんが、気を司る意識には好悪があり、相手と一体になっていない場合は気が反発しあって中々力を用いないワザが掛かりません。相手を好きになっている場合は気も親和性が高く術理も掛かりやすいと感じられます。
2番目に最近読んだ合気道の内田樹先生の本で合気道は「愛と和合の武道」というが、初心者はこの「愛と和合」を漠然とした精神的、道徳的な目標のようなものだと思っているかも知れない。だがこれはきわめて精緻に構成された技術の体系であるとの一節があり、全く太極拳も同じだと思った次第です。それは気を扱う武術では当然の事ながら相手との一体の愛が必要となってくるのです。その時ワザが一番掛かりやすい状態と言えます。気が相手をも覆い全く反発していない状態です。王宗岳の打手歌の「粘連黏隨不丟頂(ザン、リエンニエンスイブデューディン)」粘りつくように相手に従い、離れる事もぶつかる事も無い不丟不頂(ブデューブディン)の状態を作り出すには精神的に相手と敵対してはうまくいかないというのが私の実感です。だからこそ誰が来ても好きになって下さいと言っているのですが。ここの処は中々理解して貰えないかもしれません。
3番目に陳発科老師の晩年に顧留馨先生が陳発科老師に推手をお願いしたところ手が触れるや発科老師から離れなかったとの逸話がありますが、これも気の一体化によってなされているものと思われます。
太極拳では太極を知るには無極になりなさいとの教えがありますが、無極になれば相手との一体による親和性が出てくるので(この状態を相手への愛とも言える)術が掛かりやすくなるし、相手の動きも見え易くなるという道理です。ここの処を私は精神の技術論と言っていますが、ある意味一番大事な部分とも言えると思います。
特に、損得、利害にさとく損得、利害で行動する人には注意して貰いたいポイントです。
損得、利害と相手への愛とは相いれないものなので、この太極拳の修行に入った段階で強く意識して自分を変えていく必要があると考えています。ただこれは単なる精神論と捉えられやすく素直に聞き入れて貰えないのが現状です。