2021年6月4日金曜日

太極拳理論の要諦

 銭育才先生が書かれた「太極拳理論の要諦」の序文に下記のような言葉があります。


若い頃、私は太極拳の道を求めていました。しかし、正しい道に入らなかった。技だけを求めてしまったのです。漠然とした套路の練習だけで極意に到達できるとは信じられなかった。はじめは推手も単なる技術と思っていました。これを求めて求めて・・・二十年を無駄にしました。違う、考え方が全然違う。だから経典に戻るしかないのです。


私も上記に全く同感です。技だけを求めると此の道に到達できない事が最近になってやっと分かってきた次第です。推手も単なる技術ではない事もようやく身に染みて分かるようになってきました。すなわち推手が要求するのはある心的状態であるという事で、それが一番大事だという事です。あくまでこの拳は太極を追求するように出来ているというのが最近の実感です。この太極拳が自分の求めている拳ではないと途中で脱落する人、離脱する人の多くは技(ワザ)だけを求めている人のような気がします。逆に太極拳が我々に求めているものが見えていないと思えます。太極拳は我々にとてつもない心的状態を求めており、拳技の向上はその状態を抜きにしては考えられないという事です。又強くなる為に太極拳に入ったにも係わらず、その心的状態を持ち続けていると他者と争う、競う気持ちがなくなるというアイロニーにも陥って行くのです。それは無極の深さを体現した時に出て来る他者との一体感でもあるのです。馮志強老師は常々無極の重要さを語られていました。昔、それを聞いた時には聞き流していましたが、今更ながらその重要性に気づかされますし、そこに師恩を感じ感謝しかありません。