2021年10月2日土曜日

無極

 ある時馮志強老師と会話をしていた時に「内功をしていたら神が入って来た事がある。」と言われました。私は咄嗟にどう返していいかも分からず、ただお話をお聞きしていました。今では私の感覚では無極が極まった時に周囲の自然、宇宙と一体になる感覚があるが、ひょっとしてそれを言われていたのではと思う。馮志強老師は太極拳の老師でしたが、実は太極拳を通じて太極を追求された老師であると言えると思います。常に太極を問題にされていました。ある時に拝師の弟子が集まるミーティングがあり、なぜかその時には拝師していない私も馮志強老師に連れて行かれました。そのミーティングの主題が話される前に馮志強老師が太極を説かれていたのを覚えています。又、よく無極が大事である事も言われてしました。無極とは太極拳論に出て来ますが形而上の概念ではなく我々が修行の中で追及し体感すべきものと了解しています。ノイズを徹底して排除した無極に立てば相手を含む周りのノイズが手に取るように分かるものです。相手が行動を起こそうと意が出てくる処もよく分かるようになります。私はほんの少しばかりの体験ですが、これが極まれば更にセンサーの感度が高まるのを実感しています。この無極に至る一つが「捨己従人」と言われる言葉です。太極拳をやった事がある人は耳にした事があるでしょう。日本語に訳すと「己を捨てて相手に従う」という事です。ではこの「捨己従人」は具体的にどのように行えば良いのか。この方法が分からず無極を諦め、太極から離れていっている人が多いのではないでしょうか。その方法の一つが自我、念が出てきたら切り捨てる作業を行う事です。このように作業を進めていけばいずれ念が出てきません。又出ようとする時が分かるようになり、すぐ切り捨てる事ができるようになります。では自分を捨てきってしまえばどうなるかですが、自分を捨てて相手に従って動いているうちに相手の気と自分の気が一体化してきます。この状態で相手が押したりして来てもその力(勁)を一瞬にして無力化できます。これを太極拳では化勁と呼びます。相手の力をそらず事が化勁と思っている人が多いようですがそれも化勁と言えない事もありませんが、次元の低い化勁と言えます。この次元の低い化勁をいくら繰り返しても次元の低い化勁の中でうまくなるだけです。「捨己従人」を行ってこそ次元を上げる事ができるのです。「捨己従人」を行って常に「無極」に立ってこそ「太極」が分かります。最近では太極拳を行っていても「太極」や「無極」に関心が無い人が多いのはどうしてかと思います。「太極」や「無極」に関心が無ければ敢えて時間のかかる太極拳をやる事もないように思えるのですが。