2020年7月1日水曜日

太極拳論注釈3-3




太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟勁、由勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、

學者不可不祥辧焉!是為論。


耄耋御众之形,快何能
観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。
この文は同上の文の意味で、年齢の形から言ったのです。「四両撥千斤」は力の功績でもないし、年齢の優位性からくるものでもない。だからなぜ「観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。」となるのでしょうか?「老人」は78歳か80歳の年齢です。70歳か80歳の年齢の老人がは若者と技や動勁の腕比べができるだけでなく、しかも勝算があるというのです。何に依拠していますか?「速い」は高齢の老人には明らかに不可能で、高齢者の行動が遅いのは自然の法則です。若者を負かすことができるなら、巧みなところが必ずあります。それは柔らかい力で剛の力を無力化することで「我順人背(私は滑らかで主体的勢いがあり、相手は滑らかでなく受動的である)」の状態にたり、それから「四両撥千斤」の技術で相手の勢いを利用して発勁します。
年齢や速度の限界を超えて、太極拳の功夫のある老人は、巧妙なゆっくりな勁で若い壮漢の拙力の速さに打ち勝つことができます。慢を以って快に克ち、柔を以って剛に克ち、静を以って動を制し、不変を以って万変に対応します。これが太極を練る法であり、又太極を用いる結果でもあります。慢練(ゆっくりの練習)と、快練(速い動きでの練習)、それぞれ効果があります。太極拳は力とスピードが要らないのではなく、
ただ、その力は全身一家(全身の動きが協調している)、意気が一致して、開合があります。そのスピードは心が静かな中にあり、触覚が鋭敏で、物や動き順応して、感応して動き、機を得て勢いを得るというものです。
学者不可不辨焉!是为论
学ぶ者、詳しく弁別しなければならないのである。以上を以って論と為す。
この文は「太極拳論」の結論です。学者は太極拳を学ぶ者であり、「詳しい弁別」の要求は低くないです。一字一字で理解し、分析します。一言一句の実践体得、一招一式の対比解析、一年一日慎重に考え慎重に自問し、絶え間なく粗を取り去り、精髄を取る、偽物を除去し本物を残す、微に入り細に入り誤りを正してこそ、真の太極拳を受け継ぐことができます。
以上、全編拳論を機能と役割によって並べ直して読み直しました。皆さんが読めば新しい悟りが得られると信じています。煉瓦を投げて玉を引く23)のは,幸甚のためです!【終わりに】
王宗岳の「太極拳論」の解析はこれで全部終わりました。
最後に拳友たちに少し話があります。
第一に、「太極拳論」は理論であり、全編を通して話しているのは太極の理です。しかし、太極拳の理は徹底したものではありません。いくつかのレベルを分けることができます。今拳を習っている人は階層的に理解しません。太極拳の「理」を述べ、最後にいろいろな「理」が混ざり合い、何を言っているのか分かりません。お互いに批判したり、相手が間違っていると非難したりする人もいます。太極拳の「理」は「太極」の道理に関わることが避けられないので、形の上での話と形の下の話が混在しています。加えていくつか道家は道教の練丹の“理”を加えている為、拳法を習っている人はどうやって練習すれば良いか分かりません。実際太極拳の「理」を「論」理、「法」理、「術」理、「技」理に分けさえすれば、私たちは簡単に拳法の中で真贋の太極拳を応用し、識別できます。
第二に拳法を練習するには必ず理論を勉強しなければならない。なぜなら、「練拳は須らく理を明らかにすべし、理が明らかになれば理を通して拳法が精妙になる。」ため、「理論は行動の指針である」からです。しかし、武のことわざには「明理不明法は、すべて空論である。(理論が明らかで、その実行方法が明らかでないのは全て空論です。)」。つまり、理を理解すれば太極拳をマスターできますか?答えは否です。あなたが勉強したのは全部「空論」ですから、操作性(法)がありません。操作性は「法」から「理」に尋ねます。もう一つ更に重要な言葉があります。法が明らかでも要訣が明らかでなければあくまでも道は得られません。「ここの」要訣は広義に見ることができます。人のツボだけではなく、可視で具体的な「技術部位」と見られます。この「要訣」こそが最も具体的で、最も「操作性」のあるものです。ですから、「要訣」の点を明らかにするには「明師」の導きが必要です。これが肝心なところです。ですから、別の角度から言えば、「太極拳論」を理解したからと言ってあなたが太極拳を修めているとは言えません。反対に、「太極拳論」を理解しないと必ず合格の太極伝承者にはならないです。「太極拳論」に対する理解は太極拳を上手にするために必要な条件ですが、十分条件ではありません。
第三に、功夫は相対的で、決して絶対的ではなく、太極拳の功夫も同じです。
しかも「太極功夫」は錬成し難く、又重要な事は制約要素が多すぎる事と条件の制限も多すぎる事です。そして更に問題は後天の習慣や慣れ親しんだ考え方と個人の損得心を克服することが肝心です。これは技芸が高い低いではなく、精神修練の問題です。だから太極拳は競技試合、自身の芸を自慢する表演、さらに商業化を提唱するべきではありません。心性修練から益々遠ざかる結果になります。また、太极拳には長寿、美容、ダイエット、幸福づくりなど、多くの後光と責任を付加するべきではありません。それは民族体育の健身運動の一項目で十分です。あなたの趣味、愛好で某太極拳を選んで練習したら0 Kです。太極拳はこれだけです。興味のある研究者は、文化機能を追加して研究してもいいです。ただし、過度にレンダリングしないでください。このように太極拳は本来の姿を持っていますが、どうしてそれで楽しくないですか?(終わり)

注)

20) 「老子」四十二章
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず
万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す
人の悪む所は、唯、孤・寡・不穀、而して王公は以って称と為す
故に物或いは之を損して益し、或いは之を益して損す
人の教えるところ、我また之を教える
強梁なる者はその死を得ず、吾将に以って教父と為さんとす

<解釈>
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。
万物は陰を背に負い陽を胸に抱いて、その中間のゆらぎをもって和を為す。
人のにくむところのものは、ただ、孤(みなしご)、寡(徳少ない者)、
不穀(不善、役立たず)である。しかるに、侯王は、それを自称する。
その故は、世の諸々の物事は、損は益に、益は損に、と転化の作用を持つ
からである。世の人の教えるところのもの、これを私もまた教える。
「強く剛直なものは、安らかな死を得られない。」私はこれを教えの父としたいと思う。先ず、「道」があり、ここから「一」が生じる。ここに説かれている事から、「道」は「空=ゼロ」と同義として良いだろう(「道」が「一」なのではない)。
そして、「一」から「ニ」つの相対立するもの、相補的なものが生じ、そこに「ニ」つのうちのどちらでもない第「三」の沖気(これは白と黒を「二」の対立物、或いは、相補物とすれば、その間に存在する微妙な色相のグレーゾーンに相当すると考えれば分かり易いだろうか)が生じるに至って、そこに様々な万物(先の例に例えれば「色相」)が生じてくる。そして、この「ニ」においては、白と黒というように、明確に対立(相補)するものとなるが、その「三」、中間のグレーゾーンは、ある時は黒に近い色相ともなれれば、又ある時には、白に近い色相ともなり得る、この「三」の持つ微妙なバランスが、白と黒の対立を薄め、その対立を和へと導く用(はたらき)をするのである。

21) 師承:弟子が師から受け継いだもの。師伝。

22) 斤(きん)は、尺貫法の質量の単位で500グラムある。伝統的には

23) 抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)                                  兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。                             読み下し「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」であり、日本の諺の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうように仕向けることを言う。




【中国語】
耄耋御众之形,快何能
此句同上句之,是从年的。"四两千斤"既不是力量的功,也不是年优势,"耄耋御众之形,快何能""耄耋"是七八十的年,七八十不但能与小伙子动劲,而且券在握,依靠什么?""于耄耋老人然不可能,老年人行动迟缓是自然,但能击败人就定有其高妙之,那就是能以柔走化成"人背",然后以"四两干斤"技巧借势发,就可以超越年、速度界限,有太极功夫的老人以巧之慢足可战胜年青壮的拙力之快.以慢克快、以柔克、以静制、以不变应,既是太极之法、又是用太极之果。慢,各有妙用。太极拳并非不要力与速度,只是其力在于周身一家、意气一致、开合有法。其速度在于心静神定、触灵敏、物来顺应感而、得机得耳。

学者不可不辨焉!是为论
本句是«太极拳»结论。学者即学太极拳者,""要求不低,就是要一字一字地理解剖析,一句一句地践体会,一招一式地照解析,一年一日地审问慎思,不断地去粗取精、去存真、由入微、错误,才能承出真正的太极拳。以上把整篇拳按其功能和作用重新排列后予以重新解,相信大家后会有新的体悟,拳有所裨益,引玉,幸甚!

结语
王宗岳的«太极拳»解析至此全部束了,最后有几句拳友们说
第一太极拳»是理,全篇的都是太极之理,但太极拳之理不是一通到底的,是可以分出几个面来的。在学拳的人不分面地去理解、述太极拳之"",最后果是各种""和在一起,不知所云,甚至有人互相攻、指责对为错。因太极拳之""不可避免要扯到"太极"之理,形上与形下在一起,再加上些道家.道教丹之"",使得学拳人不知道怎么拳了。其只要把太极拳之""分开""理、""理、""理、"",就很容易在拳中用和别真假太极拳了。
第二,拳一定要学理,"明理,理通拳法精","是行的指南"。但是武谚还
一句"明理不明法,都是空头话"就是,知道了""就能学好太极拳了?答案是否定的!你学到的都是"头话",不具可操作性,可操作性要从""理去有一句更重要:"明法不明,究不得道。"""可以广地看,指人身,视为具体之"部位"""才是最具体的,最具"可操作性"的。所以""的点明必要有""引路,才是关。所以,从另一面,理解了«太极拳»并不能你就能好了太极拳;反之,不理解«太极拳»肯定不能成一名合格的太极承者,«太极拳»的理解是好太极拳的一个必要条件但非充分条件。
第三,"功夫"是相対的而非绝对,太极功夫也一。而且"太极功夫"难练,在于它的制因素太多,条件限制也太多,而且关是它要克服后天习惯性思以及个人得失心,不是技髙低问题,而是心性修炼问题。故太极拳不宜提倡技比、表演炫技,甚至商,它会离心性修愈来愈。另外,也不宜太极拳附加很多光,寿、美容、减肥、造福等,它就是一民族体育健身运就够了,以你自己的兴趣好去选择某式太极拳去练习0K,太极拳此而已。有兴趣研究者,再附加一些文化功能研究也未不可,但勿度渲染。这样还太极拳以本来面目,而不呢?()