2020年12月31日木曜日

勁と気の出し方

私が主催している太極会では勁が出ているか各招式毎に検証しています。実際にワザを掛け合って相手が動くかどうか確認しています。ですので上級者で勁が出ていない事はあまりありません。勁が出ていないと自分自身がワザをかけた時に思い知る事になるわけです。然し乍らこのような勁を検証していない場合は往々にして勁が出ておらず太極ダンスを踊っている事が少なくありません。日本で簡化太極拳を行っている人の多くは太極ダンスとなっていますが、それはそれでご本人が満足であれば問題はありません。そもそも教える方に勁が出ていない場合が多いので仕方が無いでしょう。但し、勁が出る本来の太極拳を打ちたいのであれば以下、勁の出し方を御紹介します。
まず相手をゆっくり押してみる事とします。その際にお腹(丹田)から力を絞るように出してみて下さい。注意点は肩、肘の力を抜く事です。そうすれば相手はゆっくりと動くはずです。これを繰り返し行えば押す事に関しては勁が出るはずです。太極拳として套路を打つには更に気を用いる事が重要です。今言った方法で勁が出れば今度は押す方向に意念(強い意識)を出すと気が出ます。そうしてゆっくり押すと相手は先程より大きく動くはずです。
こうして一つの動作に勁と気が出るようになるとその他の動作も順次同様の方法で変えて行って下さい。自分で一つでも勁が出るようになると勁が出ていない箇所が徐々に気づくようになります。こうして太極拳となっていきます。以後は勁と気を大きく強大にする方向に套路を打つ事になるでしょう。

2020年12月2日水曜日

外から見た混元太極拳

 ある時道友のT氏ととある表演会で偶然一緒になった。偶々その表演会で混元太極拳を表演される方がおられ小生も見学していたが、その時そのT氏は混元太極拳は身体を練る套路ですねと言われた。套路は全てが身体を練るものですが、T氏はそれは100も承知で言われたと思う。即ち、練るのに非常に適しているという意味と本人の套路の練度が如実に表れるという意味かと感じた。確かに纏絲勁は満載であるし、それを混元球の上に載せて使う箇所も多くあるので本人の段階が今どこにあるかは本当に分かりやすい。但し、練る方からすると非常に難解かもしれないと思う。正しい指導者がいないと殆ど明後日の方向に行ってしまいかねない。 小生が北京で馮志強老師に混元太極拳を習っていた頃、他の兄弟弟子は絶対に口出しをしない。なので小生の套路が間違っているかどうかは分からない。ある時に地壇公園で練習後に師兄弟に套路に関する質問をした事があるが、馮志強老師が教えてられるからとの理由で答えられなかった。唯一張禹飛老師は小生の誤りを的確に指摘して頂いた。それがなければ混元太極拳を正確には理解できなかったと確信している。全ての動作を明勁で示して頂いたから現在楷書の混元太極拳を伝えられると思っています。

太極拳で大事な事は

①太極を理解し、体現する。

②勁を正しく理解する。

③一定の功夫がある。

④聴勁ができる

ではないかと思う。

2020年11月2日月曜日

捨己従人に関する考察

王宗岳の太極拳論の中で「捨己従人」について元々は「捨己従人」なのに誤って近きを捨て、遠きを求めるとあります。これは捨己従人は近きを求める事だという風に解釈されます。小生の実感として捨己従人を達成するには3段階があるように思われます。

第一段階 己を捨てる段階です。具体的には自分の念(雑念)を捨て去る事で、これに徹する事により全体が良く見えるようになります。

第二段階 念が無くなり相手と一体となる感覚が生じてきます。相手に従う事が自然とできるようになります。

第三段階 自分の気が相手をも覆うような感覚です。相手の気が動いた場合でも自分の気が動くかのような感覚で察知できるようになります。


2020年10月2日金曜日

楷書の混元太極拳2

楷書の混元太極拳を打ち出してから何が楷書なのかという質問を受けましたので、この場にてお応えしたいと思います。
そもそも馮志強老師の套路は暗勁を用いる事が多く、普段は勁がはっきり見えないきらいがあります。勿論、表演等では明勁を出して套路を打たれる事もありますが普段はあまり明勁で套路を打っておられなかったようです。それを外形だけ真似ても中味が無い、勁が出ない套路となりがちです。現地に住んでおらず、日本から通いの生徒は往々にしてこの傾向に陥りがちです。小生の場合は偶々張禹飞老師からも御指導頂いていたので、同老師から度々勁が間違っている箇所については指摘され、修正されました。小生も一つ一つの勁を確認し、馮老師にも確認を取って套路を打って来ましたので各招式がどのような勁を出すのかに関しては多少知る処となりました。まずは明勁でしっかり套路を打ち、上級になるにつれ暗勁でも套路を打てば良いかと思います。その為に私の主催する会では勁の検証を各招式毎に度々行っており、勁が出て相手が飛ばない、もしくは動かない限りその招式の勁が出ておらず、招式ができていないと判定しています。
現在日本で混元太極拳を普及するにあたり、この正しい明勁を正しく伝える必要があり、その套路を楷書の太極拳と呼んでいるのです。
最近も張老師から中国における混元太極拳の表演動画を送って来られ、こんな勁が出ていない套路を打っているようでは墓場で馮老師が憤死されていると言われていました。
日本でも状況は似たようなものではないかと危惧するこの頃です。これらの事を背景に最近「楷書の混元太極拳」を提唱しているのです。正しい勁で打つ事が套路においては大事です。中国人は個性的な為、套路を色々と変えてはいますが、勁は同じである事が必要です。これが伝統太極拳の根本的な考え方です。その意味で楷書の太極拳が皆さんお練功の一助になれば幸いです。

2020年9月2日水曜日

気の反発に関する考察

最近教室ではお互いを好きになるように訓練して欲しいと生徒の皆さんに要望しています。又教室長は皆さんから好かれているかを問題にしています。これに関してはいくつかの話、経験が下地になっているのでここでその話をしたいと思います。
まず初めにある合気道か古武術の名人が教室の練習で生徒さんをころころと転がす動画があり、中々大したものだなあと感心してみていました。その方が他流との試合をする動画があり、見ているとワンパンチで倒されてしまったのです。でその動画を良くみていると件の名人は他流試合ではかなり構えており、気が前に出ているようにみえました。我々も教室では相手を気で動かす練習をしますが、気が出てしまってはワザは掛かりにくいものです。気に好悪はありませんが、気を司る意識には好悪があり、相手と一体になっていない場合は気が反発しあって中々力を用いないワザが掛かりません。相手を好きになっている場合は気も親和性が高く術理も掛かりやすいと感じられます。
2番目に最近読んだ合気道の内田樹先生の本で合気道は「愛と和合の武道」というが、初心者はこの「愛と和合」を漠然とした精神的、道徳的な目標のようなものだと思っているかも知れない。だがこれはきわめて精緻に構成された技術の体系であるとの一節があり、全く太極拳も同じだと思った次第です。それは気を扱う武術では当然の事ながら相手との一体の愛が必要となってくるのです。その時ワザが一番掛かりやすい状態と言えます。気が相手をも覆い全く反発していない状態です。王宗岳の打手歌の「粘連黏隨不丟頂(ザン、リエンニエンスイブデューディン)」粘りつくように相手に従い、離れる事もぶつかる事も無い不丟不頂(ブデューブディン)の状態を作り出すには精神的に相手と敵対してはうまくいかないというのが私の実感です。だからこそ誰が来ても好きになって下さいと言っているのですが。ここの処は中々理解して貰えないかもしれません。
3番目に陳発科老師の晩年に顧留馨先生が陳発科老師に推手をお願いしたところ手が触れるや発科老師から離れなかったとの逸話がありますが、これも気の一体化によってなされているものと思われます。
太極拳では太極を知るには無極になりなさいとの教えがありますが、無極になれば相手との一体による親和性が出てくるので(この状態を相手への愛とも言える)術が掛かりやすくなるし、相手の動きも見え易くなるという道理です。ここの処を私は精神の技術論と言っていますが、ある意味一番大事な部分とも言えると思います。
特に、損得、利害にさとく損得、利害で行動する人には注意して貰いたいポイントです。
損得、利害と相手への愛とは相いれないものなので、この太極拳の修行に入った段階で強く意識して自分を変えていく必要があると考えています。ただこれは単なる精神論と捉えられやすく素直に聞き入れて貰えないのが現状です。
  

2020年8月1日土曜日

北京陳式の共通点と方向性

皆さんには北京陳式とは耳慣れない言葉と思いますが、そこから御説明しましょう。北京陳式とは陳式太極拳の嫡流でその名を広めた陳発科老師の拝師弟子、孫弟子等が演じる太極拳の事です。従い、陳氏宗家を引き継いだ太極拳と言っても良いと思います。陳氏宗家の太極拳は北京をメッカとして広まっていきました。北京陳式で練習する套路は新架式と呼ぶ人も出てきており套路は全国的に広まった感があります。然し乍ら套路が北京陳式の全てではなく、北京陳式全体は拝師の弟子が継承していっています。というのも陳発科老師は陳式太極拳を陳一族に閉じ込めるのではなく、陳姓以外にも開放したからです。ですが誰でも良い訳ではなく当然陳発科老師のお眼鏡にかなう人物が引き継いでいく事になりました。陳式太極拳には陳発科老師の出身地では地域で伝承される太極拳がありますが、北京陳式はそれとは多少趣を異にしている印象があります。尚、小生が属する混元太極拳も北京陳式に属します。北京陳式では毎年北京で大会が開かれていました。私が北京にいた時は年2回、大会がありました。当時の北京陳式の会長は馮志強老師でしたが、現在は陳照圭老師の弟子で後に馮志強老師の弟子になった謝志根老師です。
北京陳式の老師方の共通点としては現役時代は太極拳を職業にする事が無く、皆さん自分の職業をお持ちで、引退後に太極拳を本格的に教える方が殆どです。従い、太極拳を商業ベースに乗せる必要も無く、昔ながらの教え方で付いてくる人のみを教えるといった具合でした。当然の帰結として対外的な宣伝は無く、あまり一般の人々に知られる事はありませんでした。
小生が考える北京陳式の方向性は気の流れを重視するという事ではないかと考えています。例えば斗勁(とうけい)ですが、北京陳式にはあまり斗勁を用いる人はいません。小生は陳発科老師が斗勁を陳式太極拳と思う人がいるが、それは陳式太極拳では無いと否定されたという話を馮志強老師より伺いましたが、要は気の流れという意味では流れをスムーズにする方向とは逆なので否定されたのではと推測しています。又金剛捣碓も気の流れを考えて2度変更したと聞いています。套路は要は身体の開発を目的としているので、単に招式(ワザ)を組み合わせたというより、その繋ぎの動作も含め気の流れを重視し身体を開発していくように組み立てられ、最終的には混元太極拳の原型に辿り着いたと考えるのが小生の結論です。
これらの結果として北京陳式は陳発科老師の出身地で地域で伝承される太極拳と趣を異にしてきたのではないかと思います。どちらが良いとか悪いとかの話では無く、風格が違ってきているという事だと思います。禅でも達磨大使から伝承されてきましたが、臨済禅と曹洞禅で風格が異なるのと同じです。

2020年7月1日水曜日

太極拳論注釈3-3




太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟勁、由勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!
察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、

學者不可不祥辧焉!是為論。


耄耋御众之形,快何能
観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。
この文は同上の文の意味で、年齢の形から言ったのです。「四両撥千斤」は力の功績でもないし、年齢の優位性からくるものでもない。だからなぜ「観よ、老人が能く衆を禦(ぎょ)するの形を。」となるのでしょうか?「老人」は78歳か80歳の年齢です。70歳か80歳の年齢の老人がは若者と技や動勁の腕比べができるだけでなく、しかも勝算があるというのです。何に依拠していますか?「速い」は高齢の老人には明らかに不可能で、高齢者の行動が遅いのは自然の法則です。若者を負かすことができるなら、巧みなところが必ずあります。それは柔らかい力で剛の力を無力化することで「我順人背(私は滑らかで主体的勢いがあり、相手は滑らかでなく受動的である)」の状態にたり、それから「四両撥千斤」の技術で相手の勢いを利用して発勁します。
年齢や速度の限界を超えて、太極拳の功夫のある老人は、巧妙なゆっくりな勁で若い壮漢の拙力の速さに打ち勝つことができます。慢を以って快に克ち、柔を以って剛に克ち、静を以って動を制し、不変を以って万変に対応します。これが太極を練る法であり、又太極を用いる結果でもあります。慢練(ゆっくりの練習)と、快練(速い動きでの練習)、それぞれ効果があります。太極拳は力とスピードが要らないのではなく、
ただ、その力は全身一家(全身の動きが協調している)、意気が一致して、開合があります。そのスピードは心が静かな中にあり、触覚が鋭敏で、物や動き順応して、感応して動き、機を得て勢いを得るというものです。
学者不可不辨焉!是为论
学ぶ者、詳しく弁別しなければならないのである。以上を以って論と為す。
この文は「太極拳論」の結論です。学者は太極拳を学ぶ者であり、「詳しい弁別」の要求は低くないです。一字一字で理解し、分析します。一言一句の実践体得、一招一式の対比解析、一年一日慎重に考え慎重に自問し、絶え間なく粗を取り去り、精髄を取る、偽物を除去し本物を残す、微に入り細に入り誤りを正してこそ、真の太極拳を受け継ぐことができます。
以上、全編拳論を機能と役割によって並べ直して読み直しました。皆さんが読めば新しい悟りが得られると信じています。煉瓦を投げて玉を引く23)のは,幸甚のためです!【終わりに】
王宗岳の「太極拳論」の解析はこれで全部終わりました。
最後に拳友たちに少し話があります。
第一に、「太極拳論」は理論であり、全編を通して話しているのは太極の理です。しかし、太極拳の理は徹底したものではありません。いくつかのレベルを分けることができます。今拳を習っている人は階層的に理解しません。太極拳の「理」を述べ、最後にいろいろな「理」が混ざり合い、何を言っているのか分かりません。お互いに批判したり、相手が間違っていると非難したりする人もいます。太極拳の「理」は「太極」の道理に関わることが避けられないので、形の上での話と形の下の話が混在しています。加えていくつか道家は道教の練丹の“理”を加えている為、拳法を習っている人はどうやって練習すれば良いか分かりません。実際太極拳の「理」を「論」理、「法」理、「術」理、「技」理に分けさえすれば、私たちは簡単に拳法の中で真贋の太極拳を応用し、識別できます。
第二に拳法を練習するには必ず理論を勉強しなければならない。なぜなら、「練拳は須らく理を明らかにすべし、理が明らかになれば理を通して拳法が精妙になる。」ため、「理論は行動の指針である」からです。しかし、武のことわざには「明理不明法は、すべて空論である。(理論が明らかで、その実行方法が明らかでないのは全て空論です。)」。つまり、理を理解すれば太極拳をマスターできますか?答えは否です。あなたが勉強したのは全部「空論」ですから、操作性(法)がありません。操作性は「法」から「理」に尋ねます。もう一つ更に重要な言葉があります。法が明らかでも要訣が明らかでなければあくまでも道は得られません。「ここの」要訣は広義に見ることができます。人のツボだけではなく、可視で具体的な「技術部位」と見られます。この「要訣」こそが最も具体的で、最も「操作性」のあるものです。ですから、「要訣」の点を明らかにするには「明師」の導きが必要です。これが肝心なところです。ですから、別の角度から言えば、「太極拳論」を理解したからと言ってあなたが太極拳を修めているとは言えません。反対に、「太極拳論」を理解しないと必ず合格の太極伝承者にはならないです。「太極拳論」に対する理解は太極拳を上手にするために必要な条件ですが、十分条件ではありません。
第三に、功夫は相対的で、決して絶対的ではなく、太極拳の功夫も同じです。
しかも「太極功夫」は錬成し難く、又重要な事は制約要素が多すぎる事と条件の制限も多すぎる事です。そして更に問題は後天の習慣や慣れ親しんだ考え方と個人の損得心を克服することが肝心です。これは技芸が高い低いではなく、精神修練の問題です。だから太極拳は競技試合、自身の芸を自慢する表演、さらに商業化を提唱するべきではありません。心性修練から益々遠ざかる結果になります。また、太极拳には長寿、美容、ダイエット、幸福づくりなど、多くの後光と責任を付加するべきではありません。それは民族体育の健身運動の一項目で十分です。あなたの趣味、愛好で某太極拳を選んで練習したら0 Kです。太極拳はこれだけです。興味のある研究者は、文化機能を追加して研究してもいいです。ただし、過度にレンダリングしないでください。このように太極拳は本来の姿を持っていますが、どうしてそれで楽しくないですか?(終わり)

注)

20) 「老子」四十二章
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず
万物は陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す
人の悪む所は、唯、孤・寡・不穀、而して王公は以って称と為す
故に物或いは之を損して益し、或いは之を益して損す
人の教えるところ、我また之を教える
強梁なる者はその死を得ず、吾将に以って教父と為さんとす

<解釈>
道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。
万物は陰を背に負い陽を胸に抱いて、その中間のゆらぎをもって和を為す。
人のにくむところのものは、ただ、孤(みなしご)、寡(徳少ない者)、
不穀(不善、役立たず)である。しかるに、侯王は、それを自称する。
その故は、世の諸々の物事は、損は益に、益は損に、と転化の作用を持つ
からである。世の人の教えるところのもの、これを私もまた教える。
「強く剛直なものは、安らかな死を得られない。」私はこれを教えの父としたいと思う。先ず、「道」があり、ここから「一」が生じる。ここに説かれている事から、「道」は「空=ゼロ」と同義として良いだろう(「道」が「一」なのではない)。
そして、「一」から「ニ」つの相対立するもの、相補的なものが生じ、そこに「ニ」つのうちのどちらでもない第「三」の沖気(これは白と黒を「二」の対立物、或いは、相補物とすれば、その間に存在する微妙な色相のグレーゾーンに相当すると考えれば分かり易いだろうか)が生じるに至って、そこに様々な万物(先の例に例えれば「色相」)が生じてくる。そして、この「ニ」においては、白と黒というように、明確に対立(相補)するものとなるが、その「三」、中間のグレーゾーンは、ある時は黒に近い色相ともなれれば、又ある時には、白に近い色相ともなり得る、この「三」の持つ微妙なバランスが、白と黒の対立を薄め、その対立を和へと導く用(はたらき)をするのである。

21) 師承:弟子が師から受け継いだもの。師伝。

22) 斤(きん)は、尺貫法の質量の単位で500グラムある。伝統的には

23) 抛磚引玉(ほうせんいんぎょく)                                  兵法三十六計の第十七計にあたる戦術。                             読み下し「磚(レンガ)を抛げて(投げて)、玉(宝石)を引く」であり、日本の諺の「海老で鯛を釣る」とほぼ同意である。本来、「抛磚引玉」は、唐代の詩人、常健の故事にちなみ、自分がまず未熟な意見を述べたり、つたない作品を見せたりして、それに釣られて他人が自説を語ったり、詩作を行ってしまうように仕向けることを言う。




【中国語】
耄耋御众之形,快何能
此句同上句之,是从年的。"四两千斤"既不是力量的功,也不是年优势,"耄耋御众之形,快何能""耄耋"是七八十的年,七八十不但能与小伙子动劲,而且券在握,依靠什么?""于耄耋老人然不可能,老年人行动迟缓是自然,但能击败人就定有其高妙之,那就是能以柔走化成"人背",然后以"四两干斤"技巧借势发,就可以超越年、速度界限,有太极功夫的老人以巧之慢足可战胜年青壮的拙力之快.以慢克快、以柔克、以静制、以不变应,既是太极之法、又是用太极之果。慢,各有妙用。太极拳并非不要力与速度,只是其力在于周身一家、意气一致、开合有法。其速度在于心静神定、触灵敏、物来顺应感而、得机得耳。

学者不可不辨焉!是为论
本句是«太极拳»结论。学者即学太极拳者,""要求不低,就是要一字一字地理解剖析,一句一句地践体会,一招一式地照解析,一年一日地审问慎思,不断地去粗取精、去存真、由入微、错误,才能承出真正的太极拳。以上把整篇拳按其功能和作用重新排列后予以重新解,相信大家后会有新的体悟,拳有所裨益,引玉,幸甚!

结语
王宗岳的«太极拳»解析至此全部束了,最后有几句拳友们说
第一太极拳»是理,全篇的都是太极之理,但太极拳之理不是一通到底的,是可以分出几个面来的。在学拳的人不分面地去理解、述太极拳之"",最后果是各种""和在一起,不知所云,甚至有人互相攻、指责对为错。因太极拳之""不可避免要扯到"太极"之理,形上与形下在一起,再加上些道家.道教丹之"",使得学拳人不知道怎么拳了。其只要把太极拳之""分开""理、""理、""理、"",就很容易在拳中用和别真假太极拳了。
第二,拳一定要学理,"明理,理通拳法精","是行的指南"。但是武谚还
一句"明理不明法,都是空头话"就是,知道了""就能学好太极拳了?答案是否定的!你学到的都是"头话",不具可操作性,可操作性要从""理去有一句更重要:"明法不明,究不得道。"""可以广地看,指人身,视为具体之"部位"""才是最具体的,最具"可操作性"的。所以""的点明必要有""引路,才是关。所以,从另一面,理解了«太极拳»并不能你就能好了太极拳;反之,不理解«太极拳»肯定不能成一名合格的太极承者,«太极拳»的理解是好太极拳的一个必要条件但非充分条件。
第三,"功夫"是相対的而非绝对,太极功夫也一。而且"太极功夫"难练,在于它的制因素太多,条件限制也太多,而且关是它要克服后天习惯性思以及个人得失心,不是技髙低问题,而是心性修炼问题。故太极拳不宜提倡技比、表演炫技,甚至商,它会离心性修愈来愈。另外,也不宜太极拳附加很多光,寿、美容、减肥、造福等,它就是一民族体育健身运就够了,以你自己的兴趣好去选择某式太极拳去练习0K,太极拳此而已。有兴趣研究者,再附加一些文化功能研究也未不可,但勿度渲染。这样还太极拳以本来面目,而不呢?()


2020年6月3日水曜日

混元球に関する私見

陳式心意混元太極拳に関し、外部からは種々の意見があります。その中で陳式太極拳は方から円に行くという事が陳氏太極拳図説から説明されている意見もあります。これに関する私見を述べたいと思います。まず当門では陳氏太極拳図説は門外漢の書としてこれに学ぶ事はありません(実際門外漢の書なのかどうかは分かりませんが、そう言われている為、疑問を持った事はありません)。学ばれるのは自由なのでこれをとやかく言うつもりはありませんが。
陳式心意混元太極拳はあくまでも馮志強老師の命名ですが、この原型を創られた陳発科老師はあくまでも陳式太極拳として改良されたものです。陳発科老師は陳式太極拳の宗家なので敢えて別名をつける必要も無かったはずです。一方小生の身体感覚からは纏絲勁も混元球の上に載せて発する感覚があり、その方が一層強い、抗い難い勁力が出るし、又身体感覚からもしっくりいくものです。従い、方から円、球に行くのでは無く直接混元球を目指す太極拳と思われます。陳発科老師がこの太極拳を作った意図もそこにあるのではないかと考えています。勿論、陳発科老師がどのような順序で太極拳を学んで来られたかどうかは知る由もありません。ひょっとして方から円に至ったのかもしれません。然し乍ら陳発科老師は胡耀貞老師との出会いにより両者が到達した共通の地点をより明確にし、短時間で後学の子弟に学ばせようとされたと思われます。その観点から家伝の陳式太極拳をより高いレベルに修正していったものとみるのはごく自然ではないでしょうか?陳発科老師にとっては自身の家伝である陳式太極拳ですが、馮志強老師にしてみれば元々胡耀貞老師に師事し、胡耀貞老師の推薦で陳発科に学ばれたのですから両老師に対する尊崇の念はどちらが上というものでは無い事は間違いありません。その両老師が共同研究もして、その結果陳発科老師が改良した拳を馮志強老師が最後に集大成したとは言え馮志強老師が両老師の由来を残す意味でも陳式心意混元太極拳と命名する事は容易に想像できる事です。これは馮志強老師だからこそ、この名前になったので、陳発科が命名していれば陳式太極拳でしょう。勿論陳発科老師が改良して時点で出身地である陳家溝で練られている太極拳とは異なりますが、宗家にとっては出身地で練られている拳はどうでも良い事でしょう。どうでも良いと言うのは自身の出身の陳家溝の拳に合わせなければならないという意思が働かないという意味です。
北京陳式の一部からは、これは陳式太極拳の新架式ですねとの意見がありますが、正にそれが妥当な呼び方と思います。

2020年5月31日日曜日

太極拳論注釈3-2


張禹飛老師の太極拳論注釈を今回も転載、翻訳したいと思います。

以下の黄色で色付けした「太極拳論」の内容を逐句解析します。

太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。動之則分、静之則合。無過不及、随曲就伸。
人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩随。
雖變化萬端、而理唯一貫。着熟而漸悟勁、由勁而階及神明。
然非用力之久、不能豁然貫通焉!
虚領頂勁、気沈丹田、不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。
仰之則彌高、俯之則彌深、進之則愈長。退之則愈促、一羽不能加、蠅蟲不能落。
人不知我、我獨知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而久也!
斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壮欺弱、慢讓快耳!有力打無力、手慢讓手快、
是皆先天自然之能、非關學力而有為也!

察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝;觀耄耄能禦衆之形、快何能為?
立如平準、活似車輪。偏沈則随、雙重則滞。
毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳!
欲避此病、須知陰陽:黏則是走、走則是黏;陰不離陽、陽不離陰;陰陽相済、方為懂勁。
懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。
本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。所謂「差之毫釐、謬之千里」、
學者不可不祥辧焉!是為論。



我柔之走,人背之粘。,动缓则缓随。虽变化万端,
而理唯一。……斯技旁甚多,虽势有区,概不外壮欺弱、慢快耳。
有力打无力手慢手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所也。
察四两千斤之句,非力耄耋御众之形,快何能?……学者不可不辨焉!是为论
【各句の解析】
我柔之走,人背之粘。
相手が剛にして、自分が柔である、これを「走」と謂う。自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事を「粘」という。
前述の「粘着する事は歩くこと、歩くことは粘着すること」は、「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の技撃属性について言っている。然し、技術的性質から見れば、両者には違いがあります。この二文は両者の技術的属性を言います。
この二つの文は推手の角度からその技術的属性を説明し、さらに「粘(粘着する事)」「走(歩くこと)」の二つの勁を分析します。
推手している時、相手が勢いよく速く来ている時を剛といいます。
この「剛」にあったら、すぐに手で受けて動きます。すぐに手で受け、動いて無力化します。これは「剛を柔で受け滑らかに無力化する」という意味です。
双方の「走化」の過程で、剛柔態勢はそれぞれの功夫の大きさによって変化し、運動中の状態は、一方がゆったりしていて、他方が対処に疲れている状態になります。これを「一順一被」といいます。このように双方の接触態勢を「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」という勢いにさせ、技量が高くなればなるほど、その転換は速くなります。それが太極拳功夫で、これは「粘勁」と言います。推手の中で時々刻々「我順人背(自分はなめらかで主体的体勢にあり、相手は滑らかでなく受動的体勢にある事)」の状態になる太極拳師だけが太極散手の時に太極勁を用い相手をコントロールでき、こちらが懂勁の太極拳の達人となれ、小さな力で大きな力に勝つ事ができ、老人は青年に勝つ」いうことができます。
(もちろん、その中には悟べき「法」がたくさんあります。これに関しては筆者は別の文で解析します。)
もちろん、「粘」「走」の勁力は「化勁」のほかに(主として捋、采の二つの勁)多くの技術が応用できます。もし「勁(断力)」のように、相手の力が出そうとする前に立ち切る勁、これも「私順人背」ということです。もちろん、より高級な「聴勁の力」が必要です。
,动缓则缓
動き急なれば、則ち応ずること急にして、動き緩なれば、則ち緩に随う。
この文はまだ推手と散手に関して述べていますが、主に推手に関して述べています。この文には「粘」と「随」の二文字が内に含まれています。「粘」「随」は相手の動きが速ければこちらもそれに随い速い、相手の動きが遅いなら、こちらもそれに随いゆっくり動きます。これは「捨己従人(我が身を捨てて人に従う)」と「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし:王宗岳十三勢歌)」ということです。「動急則応急(相手の動きが急なればこちらの対応も急である。)」という文の中には「随」があり、「動緩則緩随(相手の動きがゆっくりであればこちらもそれに随ってゆっくり動きます。)」には「粘」が含まれています。「随」は(速度)が相手についていき、「粘」は(相手の力と変化)が感じられます。太極拳はただ遅いだけではなく、特に応用の中で相手の変化に随ってこちらも変化します。それ故「因敵変化示神奇(神奇を示すは敵の変化によるべし)」となるのです。しかし、快慢は「快の時は速くても乱れてはいけませんし、慢の時はゆっくりでも滞ってはいけません。」
虽变化万端,而理唯一
変化万端ありと雖も、理は一貫している。
つまり、どのように場面が変わっても、習熟していて勁が分かり、「捨己従人」自分を捨てて相手に随います。「粘(粘着する事)」、「走(相手に合わせ歩く、動く事)」が共に生じ、相手が急であれば急で応じ、緩やかであれば緩やかに応じる道理は一貫している。もちろん、この「理」は前述の太極の道理です。「太極拳の理」から外れる拳術は、いずれも太極拳ではありません。太極拳を現代のボクシングと比べる事が駄目だという訳ではありませんが、太極拳のルールの下で技比べをするだけです。そうしないと技比べの意味がなくなります。笑い草になるだけです。
斯技旁甚多,虽势有区,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力,手慢手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所
拳法には色々な流派がある。練習姿勢は色々区別はあるが、概ね強壮な者が軟弱な者を挫き、スピードの速いものが遅いものに勝る。力ある者が力無き者を打ち、手の早いものが遅いものに勝る。これ皆先天自然の力で、学んで身に着けた技術ではない。
「斯技」はここですべての中国伝統武術の技法を指すべきです。だから「傍門が非常に多い」ということです。(ここの「傍門」は「脇道の派生した流派」ではなく、「その他の門派」を意味します)。これらの「他流派」の技撃法は、すべて人の天賦本能を踏襲し、強化しているに過ぎません。例えば:強いものが弱い者を挫き、ゆっくりな動きのものが速い動きのものに後れる、力強い者が力が無い者を打つなどです。作者は言います。これらの天賦本能は太極拳の「学得功夫(修業で得た功夫)」とは関係がないと著者は言っています。(ここの「学力」とは「学得功夫(修業で得た功夫)」を意味します)。
逆に言えば「柔をもって剛を制す(力の無い者が力ある者に勝つ、力が弱いものが、力強い者に勝つ)」、慢が快を制する(動きの遅いものが、動きの速い者を制する)だけです。これこそが太極拳を練功した後に得た勁で、「修行で得た功夫」に直結する技芸です。
察四两千斤之句,非力
よく見てください「四両で千斤22)を撥く」の句を。明らかに力で勝っているのではない。
この2つの句は力の形態から言ったのです。
先賢が言っている「四両撥千斤」の技は、明らかに力のワザではありません。
人と推手を行う時の変化は霊妙で、柔らかく触れながら無力化し、「引進落空(空に引き込む)」事によって私は主体的で滑らかな態勢になり、相手が受動的で滑らかではなくなる。これによって四両撥千斤の技術で相手の力を借りて勁を発します。これは蛮力に依存してては達成できない事です。後天の学習と反復の実践がなければ不可能な事です。太極拳は速度と力を求めませんが、速度と力の原因を追求します。これが太極拳の「勝ちを制する根本」となっています。それに太極拳で防御する時は「四両撥千斤」を使います。攻撃する時は逆の道を使います。

馮志強先生は「千斤の力を鍛え、四両の気しか使わない。」と言われました。

【中国語】


下面逐句解析«太极拳»内容。
我柔之走,人背之粘。,动缓则缓随。虽化万端,而理唯一……斯技旁门甚多,有区别,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力手慢手快.是皆先天自然之能,非关学力而有所也。察四两千斤之句,非力耄耋御众之形,快何能……学者不可不辨焉!是为论

【分句解析】
我柔之走,人背之粘。
前面述及"粘即是走,走即是粘",是就""""的技击属性而言的。若从技术属性上看,二者还是有区别的,此二句的就是它的技属性。此二句是从推手角度言及其技属性的,一步深入解析"""。在推手,方来大、来时谓"",遇此"",即速以"接手即走、即接即走"化之,"来柔接顺势化之"。双方"走化"程中,态势会随各自功夫的大小而改,中的状成一方从容不迫、另一方疲于,"一被",种使双方接触态势形成"人背",手愈高其转换愈快,就是太极功夫,就叫""。只有在推手中刻能达到"人被"的太极拳,才能在太极散手,"太极"控制住,能达此方""高手,就能达到"小力大力、老头胜青年"(当然其中有很多"",笔者将另行文解析)。当然,"""""化勁"(主要是捋采两),有很多技可以,"",即将方的力堵截在未出之前,也是"人被",当然需要更高""能力。

动急则急应,动缓则缓随。
此句仍推手、散手,但是以推手主的。其中""""二字。""""说对得快我快随、得慢我慢随,此即"舍己从人""敌变化示神奇"""中含"","动缓则缓"中含""字。""要跟得上(速度),""要感得到(力度和),太极拳并非只慢不快,尤其在用中是随方之化而化的,故能"敌变化示神奇"。但无快慢均
要做到"快不可,慢不可呆滞"

化万端,而理唯一
即无论场景如何,着熟懂、舍己从人、粘走相生、急应缓随的道理是一的。当然,""就是我前述的太极之理。偏离"太极拳之理"的拳技法,均非太极拳也。太极拳与代搏击较技也非不可,只是要在太极拳规则,就失去了技的意。徒增笑柄而
已!

斯技旁门甚多,有区别,概不外壮欺弱、慢快耳。有力打无力,手慢手快,是皆先天自然之能,非关学力而有所也。
"斯技"在此是指所有的中国传统技法,所以"旁门甚多"("旁门"非指"左道旁门",而是指"其他门派")"旁门"的技,不外乎都是在沿和强化人的天本能,:壮欺弱、慢快、有力打无力等等。作者,些天賦本能与太极拳的"学得功夫"无关("学力"即指"学得功夫")。反,只有"以柔克"(无力有力、小力大力),"慢制快"(手慢手快)才是太极拳后的得来之,是与"学力"有关的技

察四两千斤之句,非力
两句是从力量形的。先"四两千斤"之技,然不是力量的功旁。与人推手、交手时变化灵活,走化、引落空而转为人背,从而达到以四两千斤的技巧借力,不是靠蛮力做到的,没有后天的学和反复践是不可能的。太极拳不追求速度和力量,但追求产生速度和力量的原因,这是太极拳的"制胜之本"。而且太极拳防御时用"四两拨千斤",进攻时却是要反其道的。冯志强先生讲:"练出千斤力,只用四两气。